最前線レポート~マネジメントはいま
野球が変える企業経営

 春。堤防での10キロ走。頭上に咲き乱れるサクラの花を見ても、感動する余裕はない。前回の計測で50分だった者は48分、48分だった者は46分。それぞれ2分以上の短縮を命じられているためだ。脚力強化の遠い先には、甲子園という明確な目標があり、組織を構成する一人一人がその目標を共有していた。

 7キロ付近。レギュラーと補欠の間を行ったり来たりしている樋山孝太の足が止まった。肥満体型の孝太にとっては持久走が一番嫌いな練習。アスファルトの上にへたり込んだ直後に、ゴール方向から足音が聞こえた。ショートを守るキャプテンの日向翔だ。

「樋山、がんばれ。自分に負けちゃだめだ。みんなで甲子園に行こうって約束したじゃないか」

 日向はすでに10キロを走り終えていたのだが、樋山がリタイア寸前というチームメートからの報告を聞いて、たまらずに3キロを逆走してきたのだ。キャプテンの気持ちがわかるから、樋山も休んでいるわけにはいかない。立ち上がり、滝のような汗を流しながら、ゆっくりではあるが走り始めた。

「すいません。オレなんかのために戻ってきてもらって。うれしいっすよ。オレ。がんばりますよ。日向係長のためなら」

「バカヤロー。練習中は係長って呼ぶな!」

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 日本の企業研修に、明らかな変化が生じ始めたのは、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(通称「もしドラ」)が発売されてからだ。オーストリア生まれの経営学者ピーター・ファーディナンド・ドラッカーの教えは、世界中で多くの経営者に信奉されているが、その言葉は時として難解であり、抽象的で、容易には理解できない。ドラッカーの理論を自らの企業経営に実践したいと考えていた無数の経営者にとり、もしドラは格好のマニュアルとなった。

 そんな経営者の大半が、もしドラの中からマネージメントのエッセンスだけを抜き取って自らの経営に生かそうとしているのに対し、一部の先鋭的な経営者は、本に描かれた内容をそのまま実践しようとしている。つまり、社員たちを集めて野球部を結成。まるで甲子園を目指す球児のように毎日の夕方と週末、激しい練習に励むことで、経営効率を高めようとしているのだ。

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 俊足のレフトで、トップバッターを任されている中野涼は、迷っていた。

(みんながやっていること。自分だけが悪いんじゃない。加わらないのは、自分だけ損するようなものだ)

 しかし……。中野は自問しないわけにはいかなかった。

(高校野球は連帯責任が原則。自分が悪事に加われば、ちょっとトクをした気分にはなれるかもしれないが、バレれば対外試合が禁止され、甲子園には出られなくなってしまう。野球部のみんなを裏切るなんてできない)

 中野は勇気を振り絞ってはっきりと、業界の元締めであるライバル会社の総務部長に告げた。

「今度の入札、うちは談合には参加しません。スポーツマンシップに乗っ取り、正々堂々と競争させてもらいますよ」

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 小気味よい金属バットの音が響く夕暮れのグラウンド。野手たちはノックのボールを、しっかりと腰を落として受け止め、無駄のない動きできれいに1塁へと送球する。4月にはほとんどの選手がぎこちない動きだったが、猛練習の成果がようやくここにきて現れてきた。高野連の地方支部が参加を認めてくれさえすれば、地区大会突破はなんとかできるのではないか。社長室の窓からグラウンドを見下ろしながら、社長の久保木賢治はそう感じ始めていた。

 背後の棒グラフには「もしドラ」式経営の成果がはっきりと現れていた。売上高は前年同月比10%増。不良品率は5分の1に低下した。終業後の練習で求心力や、社員ひとりひとりのコミュニケーション能力が高まったことが、本業にもプラスの影響を与えていた。

 マネージャー、つまり経営者としての決断に、間違いはなかった。夏の甲子園が終わるまでは、社員たちに現在の練習を続けさせよう。「いや、キミだけは秋以降も現在の服装で出勤したまえ」。窓ガラスにかすかに反射した自らのセーラー服姿に、久保木はそう命じたのだった。

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