事件簿 ’03

 よくある事件だった。現場は世田谷区内のワンルーム・マンション。凶器はガラス製の鈍器。35歳の男性が殺され、放心状態で立ちつくしていた25歳のOLが逮捕された。犯行理由は別れ話のもつれ。事件を担当した刑事の目に唯一、奇妙に映ったのは、血に染まったチャート(図)だった。

 被害者の長沢邦彦さんは東京工業大学の講師で、トポロジー(位相幾何学)講座を担当していた。友人らの話によると、長沢さんの女性関係はかなり複雑だったが、「最先端のトポロジーに比べれば単純明快」が口癖。事実、これまでに何人もの女性と後腐れなく別れた。

 下川桃子容疑者は友人の紹介で知り合った長沢さんと急速に親しい関係になり、周囲には結婚へのあこがれもうち明けていた。しかし長沢さんに結婚の意思はなく、二人の温度差は次第に広がっていった。事件の夜、下川容疑者のマンションに現れた長沢さんは、未練と恨みが入り交じった言葉をぶつける下川容疑者を無視するかのように、ポケットから取り出したA0サイズのチャートをベッドの上に広げた。

 「実はおまえの弟とオレは……」と切り出した長沢さんがチャートに描かれた複雑な曲線のうち1本を指さした瞬間、以前から二人のただならぬ関係を察していた下川容疑者は、長沢さんが持ってきたガラス製の鈍器で、長沢さんの後頭部を殴った。

 「清算できない関係などない。おれならどんな複雑にからみあったしがらみも、きれいにすることができる」。生前、そう豪語していた長沢さんは、「仮説」を証明するために自ら複雑な状況を作ってしまったのではないかと、上司にあたる大学教授はみる。

 現場に残されたチャートには、双方の家族、友人、同僚などを含む複雑な人間関係が克明に記されていた。その数63人。肉体関係、友人関係もあれば、親の敵、現金の貸し借りといった関係もある。この複雑な別れ話をもつれさせない方法はあったのか、長沢さんが大学から持ち出したクラインの瓶がヒントなのか。すべては謎のままだ。

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