苦難の道

 「和尚様、お、お願いです。どうか私めもチベット仏教に入信させてくださいまし。カルマパ17世様が亡命なさったという噂を聞いて、湖南省から汽車とバスを乗り継いでここラサまでやって参りました。家には年老いた両親と妻、8人の子どもが腹を空かして待っているのでございます。ここ数年は不作で、今年の冬も超すのがやっと。農民として生きていくのはとても苦しゅうございます。あ、どうか、和尚さま、門を閉めないでくださいまし。せめてあと1分で結構でございます。後生ですから私の話をお聞きください。隣に陳という男が住んでおりまして、この男が2年ほど前に行方知れずとなり、村の者たちは、陳が家族を捨てて都会にでも逃げたか、はたまた行き倒れになったかと囁きあっていたのでございます。ところが不思議なことに陳の家はあれよあれよと言う間に豊かになり、なんと舶来の車まで手に入れ、村じゅうが大騒ぎになる始末。そうこうしているうちに何処からか帰ってきた陳が言うには、日本に渡って1年も懸命に働けば、10年は寝て暮らせるらしいのです。ええ、陳は間違いなくそう言ったのですよ。言葉が通じなくても大丈夫かと聞いたら、中国人がたくさんいるから大丈夫と、陳は言うのです。私はすぐに荷物をまとめて、陳に教えられた通り、福建の漁港で日本行きの密航船に乗り込みました。いえ、それが運悪く、明日は九州に上陸というところで、日本の巡視船につかまり、強制送還されてしまったのでございます。借金してこさえた密航料は水の泡。このままでは一家12人が首をくくらねばなりません。途方に暮れたときに聞いたのがカルマパ17世様の亡命のお話。ねえ和尚様、ヒマラヤの険しい山々を超えられたのはチベット仏教の御利益のおかげでございましょう? 同じ御利益で、東シナ海の底を歩いて渡れない訳はございません。海の上なら捕まるけれど、海の底ならきっと大丈夫でございます。どうか私めにもカルマパ17世様と同じ……」

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