危機の男

 その老人が家に帰ったとき、時計は夜11時を回っていた。

 年末年始をのんびりと妻と過ごすつもりが、あの事件のために、俄然忙しくなってしまった。テレビ番組出演、雑誌の取材、外務省へのアドバイスと、現役当時よりも慌ただしいスケジュールをこなさなくてはならない。

 政府の危機管理体制がこの十数年間で大きく進歩したとはいえ、まだまだ改善しなければならない点は残されている。東大安田講堂事件、浅間山荘事件で警察当局を指揮したこの老人は、自分が単なるアドバイザーとなり、もはや第一線の当事者として事件にコミットできないことが歯がゆくてならなかった。できることなら今すぐにでも機動隊を率い、拡声器を手にリマへと飛んでいきたい。そんな気分だった。

 玄関のベルを押そうとしたが、眠っている妻を起こすのは可哀想なので、自分で鍵を開けることにした。

 ところが、鍵はかかっていなかった。

「まったく、無用心にもほどがある」

 危機管理の専門家の家で、危機への備えがまったくできていないとは――。明日の朝、妻を叱りつけなければならない。

 その瞬間、真っ暗な居間で何者かが隠れた気配がした。

 何者だろうか。息をひそめて、老人は居間に近づいた。

 賊がいきなり体当たりしてきた。が、老人はあわてない。すでに65歳を過ぎたとはいえ、剣道七段、柔道六段の強靭な身体はそう簡単には衰えない。賊はみぞおちを強打されて気絶した。

 老人が明かりをつけた。賊は中年の貧相な男だった。その弱々しい体格は、どう見ても元内閣安全保障室長で戦国武将の末裔、佐々々淳行の相手ではない。

「全共闘世代ごときには、まだまだ負けん」

 次の瞬間、老人ははっと気がついた。妻は無事だろうか。

 急いで階段を駆け上がったが、2階の寝室には誰もいなかった。

 台所にも、居間にも、書斎にも妻の姿は見えない。

「まさか……」

 数々の国家的危機に沈着冷静に対処してきた老人が、初めて慌てふためいた。

 しばらくして、老人は食卓の上の置き手紙を見つけた。

「あなた。お帰りなさい。今日の約束、すっかりお忘れのようですね。あなたはもう引退したのですよ。何が日本の危機ですか。なぜあなたの後輩の腕を信じられないのですか。『父さん、今日も忘れちゃったわね』と娘は泣いておりました。四十年以上、我慢に我慢を重ねてまいりましたが、今日という今日はあなたを許せません。長い間お世話になりました。さようなら」

 老人は安堵のため息をついた。妻は千葉にある妹の家にでも泊まっているに違いない。

 しかし、文面から判断して、妻は激怒しているようだ。いったい、なぜ……。

 老人はようやく思い出した。今日の午後、娘の婚約者が尋ねてくることになっていたのだ。急きょ決まったテレビの討論番組出演のために、すっかり忘れていた。

 結婚してから文句一つ言ったことのない妻が、出ていってしまった。私はどうすればいいのか。いさぎよく土下座して謝ろうか。妻がいなければ、私は寝巻さえ見つけられない。

 思えば情けないことだ。地球の裏側で起きた「危機」のために、自分の夫婦生活が未曾有の危機に陥ってしまうとは……。

 いや、リマの事件、妻の怒り。どちらも「危機」には変わりない。

 危機管理の神様の血が、久しぶりに騒ぎ出した。

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