Horowitz in Moscow

 アメリカ国務省でロシア担当の国務次官補を4年間にわたり務めてきたウィリアム・レズニックは、ひどく憤慨していた。その日、次期国務長官が第2期クリントン政権の発足を前に発表した国務省高官のリストに、レズニックの名前が含まれていなかったからだ。

「私に何の落ち度がある。この4年間、ロシアはほとんどアメリカの思うように動いてきたではないか」

 明日から仕事を探さなければならない。大学の教壇に立つか、民間の研究機関に行くか。自分の臨む仕事が必ず見つかるとは限らなかった。息子の学資は払えるのか。妻になんと説明すればいい……。怒りはすぐに不安に変わった。

 レズニックは、車を運転して帰宅する途中で、カーステレオの中にCDを入れた。 “Horowitz in Moscow” 辛いこと、悲しいことがあると、決まってこのCDが聞きたくなる。

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 それは、伝説のピアニスト、ウラジミール・ホロビッツが1986年、当時のソ連で61年ぶりに開いたコンサートの模様を収録したCDである。 最初の曲、スカルラッティーのピアノソナタが聞こえてきた。レズニックは車を路肩に停め、目を閉じた。美しい調べに励まされたような気がした。涙がとめどなく溢れだした。

 ロシアが産んだ伝説のピアニストの演奏を、おそらくは生まれて初めて聞くであろう聴衆の中に、レズニックもまた含まれていた。10年前、彼は米大使館の一等書記官としてモスクワに派遣されていた。本来は大使が米政府を代表してホロビッツの演奏を聴くことになっていたが、風邪で熱が出たため、急きょレズニックが会場のチャイコフスキー音楽院に駆けつけた。

 巨匠の指先が軽やかに奏でる美しいメロディーに混じって、咳の音が聞こえた。ライブである以上、それは仕方のないことではある。ただ、大量の痰がからんでいることを示す破裂するような十数回の咳は、周囲の聴衆を不快にさせたはずだ。それは誰よりもレズニックがよく憶えている。

 咳をしたのは、他でもないレズニックだった。スカルラッティーが終わり、二曲目のモーツァルトの演奏が始まるまでの短い時間に、民族の英雄の演奏を邪魔されたことに激怒したロシア人数人の手で、レズニックは会場の外へとつまみ出された。

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 レズニックは涙をぬぐい、カーステレオを消した。二曲目以降は聞いたことがない。レズニックの”Horowitz in Moscow”はスカルラッティーだけで終わったのだ。

 しかし、モスクワでの苦しみはその後も続いた。もともと風邪ぎみだったレズニックは、その夜、冷たい雨に打たれながら宿舎に戻ったため、重い肺炎にかかってしまった。一時は生命さえ危ぶまれた。 

それでもレズニックは不屈の精神力で蘇り、3ヶ月後に帰国。ワシントンの国務省で数年働いたあと、国務次官補に抜擢された。

「私はあのピンチを乗り越えたのだ。今度のピンチだって、何とかなるに違いない。ホロビッツは死んだが、私は生きている。生きているんだ……」

 レズニックの車は、家族と蒸気吸入器の待つ家に向けて再び走りだした。

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