ヒロセ君の夏

また、夏がやって来た。スイカ、かき氷、夏服、セミの声、甲子園の地方大会。どれも、あの夏と同じだ。

ボクは、今年もまた、高校3年のあの夏を思い出していた。一生に一度しかやって来ない、特別な夏を──。

* * *

 ボクは高校生のころ、物理部に入っていた。テニス部や、バスケット部と同じように、物理部にも大会というものがある。そんな話をすると、ほとんどの人が物理の研究発表会や、せいぜい実験の正確さを競う大会を想像するのだが、そうではない。物理の競技会では、参加者が自分の肉体を使って、教科書に載っているごく基本的な物理の法則をどこまで忠実に再現できるかを競うのである。

その年の物理部には、ボクを含めて5人の3年生がいた。競技は普通、団体戦形式で行われ、4種目の総合得点を競う。1種目に参加できるのは1人だけなので、ボクはコーチ兼物理教師に命じられるまま、補欠になった。

同じ県に物理部のある高校が少なかったこともあり、ボクたちは簡単に県大会を突破し、東京の国立競技場で開かれた全国大会へと駒を進めた。

全国大会の最初の種目は、

 静止している物体に一定方向への力が加わり、この物体は3メートル毎秒毎秒で加速した。動きはじめてから10秒後のこの物体の速度を求めよ。ただし、空気抵抗や摩擦はいっさいないものとする。

 

という、見た目には中学生でも解けそうな簡単な問題だった。

答えは、

3(m/s^2) × 10(s) = 30(m/s)

 

 競技会では、選手が実際にこの物体の運動を再現しなければならない。ボクたちのチームからは、タカハシ君がこの種目に参加した。タカハシ君はスタートの1時間前から、「ただし、空気抵抗や摩擦はいっさいないものとする。ただし、空気抵抗や摩擦はいっさいないものとする……」と自分に言い聞かせ、見事に静止状態から10秒をかけて30メートル毎秒に加速した。30メートル毎秒といえば時速108キロだが、心頭滅却して純粋な「物体」になったタカハシ君にとっては全く苦にならなかったようだ。

第二問は、

 温度が36.5℃、質量が65Kg、比熱が1.2カロリー/(g・℃)の物体に、100万カロリーの熱を加えた。このときの物体の温度を求めよ。ただし、物体が100万カロリーの熱、すべてを吸収し、物体の熱がまったく外部に伝達されないと仮定すること。

 

 答えは、

1000000(cal) / (1.2(cal/g・℃) * 65(kg) * 1000) + 36.5(℃) = 49.32(℃)

 

 しかし、二番手のアライ君がこの現象を正確に再現するためには、恒温動物としての性(さが)を捨て、一時的に変温動物にならなければならない。アライ君は見事に、「俺はヘビだ。ニョロニョロ」と心の中でつぶやきながら、体温を49.32℃まで上昇させた。いつもはクールなアライ君が全身を真っ赤にして「私の前世は天草四郎時貞」などとうわごとを言っていたのは、やはり高熱のためだったのだろう。

第三の種目は、自由演技である。

 ファラデーの法則、マックスウェルの法則に従い、電波を発生させて、ラジオ番組を制作せよ。

 

 われら物理部の代表、ヤマモト君は、巨大な磁石を手にし、それを文字通り目にも止まらぬスピードで小刻みに震わせた。マックスウェルが予言した通りに電磁波が発生し、ラジオから

「ラジオ人生相談」

 

が聞こえて来た。他校の選手が奏でた「ジェットストリーム」や「アメリカントップ40」も良かったが、両親が離婚して幼いころから苦労を重ねたヤマモト君のリアルな悩みには遠く及ばなかった。

最後の種目には、主将のヒロセ君が出場した。問題は、

 質量75キロの物体がエネルギーに転換されたとき、そのエネルギーの大きさはどれだけになるか。相対性理論を用いて求めよ……

 

* * *

 ヒロセ君の活躍がダメ押しになり、ボクたちは優勝旗を母校に持ち帰ることができた。夏休みが終わったあと、タカハシ君、ヤマモト君、天草四郎君、そしてボクの4人で、アイスキャンディーを食べた。アイスキャンディーが大好きだったヒロセ君がその場にいないのが、残念でならなかった。

その年は、記録的な暑さだった。タカハシ君、アライ君、天草君、そしてボクも口に出しては言わなかったが、心の中ではみな、ヒロセ君の放った

75(kg) × (2.99792458 × 10^8(m/s)) ^ 2 = 6740663840526000000(J)

 

のエネルギーがボクたちを見つめていることに気がついていたと思う。

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