アパレル産業はいま
ネクタイ業界の命運握る「秘密兵器」

「これ以上、話し合っても時間の無駄ですな」

 5月18日の午後。日本ワイシャツ連盟(ワイ連)の山茂重則会長ら4人が一斉に席を立った瞬間、都内のホテルで行われた秘密交渉は決裂した。開始から15分も経っていない。

「そんな。見捨てるなんてあんまりだ」

 彼らの背中にすがりつこうとした部下を、日本ネクタイ協会(ネク協)の水尾五朗会長が押しとどめた。

「頼んでも無駄だ。彼らも苦しんでいる。私が山茂さんの立場なら、同じ判断を下しただろう」

 ワイシャツにネクタイといいう服装が日本の勤め人の間で一般的となった昭和20年代から、ネクタイ業界とワイシャツ業界は共存共栄を図ってきた。それぞれの業界を代表するネク協とワイ連は、色や柄の流行の傾向をつかむため熱心に情報交換をはかり、韓国や中国など途上国への生産ラインシフトの過程でも協力した。ネクタイとワイシャツの需用の伸びを描いたグラフの曲線がほぼ重なることが、両者が運命共同体であったことを象徴している。

 そんな関係が、突然終わりを告げた。蒸し暑い夏の日本でのワイシャツ、ネクタイの着用はクーラーの使用が大前提であり、環境に有害との批判が両業界に浴びせられたためだ。

 批判の声に対応し、ワイシャツ各社は襟が小さくノーネクタイに適した新商品を次々と発表した。出遅れたネク協が慌ててワイ連に申し入れたのが、地球に優しいネクタイとワイシャツのセットの共同開発。両業界が譲り合って共存することを狙った構想だったが、冒頭で紹介した通り、ワイ連の態度は極めて冷淡だった。

 匿名を条件に取材に応じた中堅ネクタイメーカー社長によれば、ワイシャツ業界の態度の背景にはある思惑が潜んでいるという。

「10年前、2つの業界団体が共同でネクタイとワイシャツが地球に与える環境を調査した。その結果、ネクタイとワイシャツをどちらも着用したときの環境への悪影響を10とすれば、ワイシャツだけを着用した場合は2.5、素肌にネクタイだけを巻いた場合は0.8であることがわかった。ワイシャツ業界としては、そのデータが世間に知れ渡る前に、生き残りをかけてノーネクタイのワイシャツを社会に普及させる作戦を選んだのだろう」

 ネク協にもワイシャツ依存からの脱却を目指した「過去」がある。1995年には業界を挙げてネクタイを襟ではなく、頭に巻き付けるキャンペーンを展開した。これならワイシャツでもポロシャツでもTシャツでもネクタイを使ってもらえるとの期待が出発点だったが、ネク協関係者の期待とは裏腹に、新規需要の掘り起こしにはつながらなかった。ネク協の水尾会長は当時を振り返りながら、苦渋の表情を浮かべた。

「ユーザーがネクタイを頭に巻いてくれたのは、酔いがまわって盛り上がった酒の場だけ。しかもそのようなユーザーには、宴会の雰囲気を盛り上げる力はあっても、就業時間中には人が変わったように無口になり、社内でのネクタイの使用方法に影響を与える力はほとんどなかった」

 ワイシャツ業界から思わぬひじ鉄を食らったように見えるネクタイ業界。ところが、業界関係者の証言を拾い集めると、ネク協がワイ連との交渉決裂に早くから備えていた状況が浮かび上がる。一部のネクタイメーカーは、昨年冬から密かにワイシャツの部材生産に向けて準備を進めていた。昔ならタブーとされた「垣根の向こう側への進出」は、蜜月時代の終わりとともに解禁され、このメーカーでは7月までに生産を開始する見通しだ。

 前出のネクタイメーカー社長は語る。

「素肌にネクタイの省エネ効果が顕著であることは実験データが証明している。しかし職場での乳首の露出は、男女を問わず秩序の乱れに直結する。かといって素肌をワイシャツで隠せば省エネ効果がなくなるし、そもそも我々にはワイシャツ全体を作るノウハウも生産設備もない。一方、ワイシャツの一部だけなら我々にも作れるし、省エネの効果も大きい」

 交渉決裂から3日後。都内にあるネク協本部では、水尾会長が新製品のサンプルを自ら試着していた。

 この新製品に、ネクタイ業界全体の命運がかかっている。まったく新しいコンセプトに基づくこの商品は、日本のサラリーマンや企業風土に受け入れられるのか……

 不安な表情を浮かべるメーカー各社の社長たちが作る輪の中心に、上半身裸の水尾会長が立っていた。素肌の上からネクタイを締めてから、自信に満ちた様子で胸を張ると、左右の乳首は粘着式のポケットで覆い隠されていた。

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