スポーツドキュメント
祐介の28800秒

 7時間13分45秒。

 羽織袴に身を包んだ祐介は腕組みをしたまま旅館の縁側に立ち、眼下の海岸に波が打ち寄せるのを見ていた。しかし祐介の脳裏に、青い空と、やや緑がかった海、白い波頭、そして時折飛び交うカモメが織りなす風景は届かない。

 「まず右上隅を突いて奴を驚かせた。左下隅に行くと見せかけて再び右上隅を突いた。今度こそ左下隅と思うだろうが、注文通り左下隅に行くと見せかけて再三の右上隅。うむ。手も足も出まい」

 5時間12分31秒。

 大勝負の前には必ずそうするように、祐介は目を閉じた。暗闇のなかに、縦横3列ずつの升目が現れた。どの場所をどの順番で攻めていくのか。考えられる限りの可能性をすべて検討しても、「右上隅」という作戦は正しいという答えしか出なかった。

 しかし……。

 3時間45分49秒。

 後ろ手に持った扇子を少しだけ開き、乾いた音とともに閉じた瞬間、祐介の意識は2年前の対戦へとフラッシュバックしていた。

 右上隅を2回続けて攻めたあと、渾身の力を込めた3回目の右上隅はいとも簡単に跳ね返されてしまったのだ。

 1時間18分29秒。

 それでも、と祐介は思う。今回は右上隅を攻めなければならないと。それは全身全霊を傾けて、祐介に自らが持つすべての知識と能力を注ぎ込んでくれた祖父・耕作の編み出した技だからだ。耕作がいなければ、いまの自分もなかった。恩に報いるためにも、耕作に教わった方法で勝たねばならぬ。

 58分23秒。

 祐介は羽織袴を着たまま、自宅の門の前ですでに待っていたハイヤーに乗り込んだ。

 32分16秒。

 決戦の場に到着。素早くユニフォームに着替えて、入念なストレッチ。ブルペンで30球ほどを投げて肩をあたためると同時に、精神を臨戦態勢に高めていく。

 5分2秒。

 それまで居眠りしていた観客が、祐介の到着を場内アナウンスで知らされ目をさました。対戦チームのベンチからもぞろぞろと選手が出てくる。

 1分57秒。

 ゆっくりとした足取りでベンチからマウンドに進んだ祐介は、内野陣に声をかけ、アウトカウントを確認した。審判の叫びとともにプレー再開。

 15秒。規定に従い、バックネット裏で女性の係員がやや鼻に詰まった声で秒読みを開始する。

 10秒、9秒、8秒…。

 祐介は目を閉じた。もう、観客の大歓声は聞こえない。

「じいちゃん、天国で見ててくれ」

 大きく振りかぶってから、左足のつま先を高く上げる。

 0秒。

 9回裏ツーアウトランナーなしから祐介が投げた直球は寸分の狂いもなく右バッターの内角高めに伸びていったが、バットの芯で見事に捕らえられ、美しい弧を描いてスコアボードの向こうに消えた。

 球場となりの駐車場に停めてあった車のフロントガラスをボールが突き破るまでに3秒。

 バッターがゆっくりとダイアモンドを一周し、ホームで手荒い祝福を受けるまでに48秒。

 マウンド上に崩れ落ちた祐介がチームメートに励まされて立ち上がるまで1分48秒。

 バッターがヒーローインタビューのお立ち台に上り、「ただただ無心で、どんな球が来てもフルスイングしようと思っていた」と話すまで4分39秒。

 それを記者から聞いた祐介がコメントに窮し、扇子の先端で頭を掻くまでに、6分10秒の時間が流れていた。

(日本野球機構編「緊急レポート なぜ28800秒ルールではダメなのか」の内容をもとに再構成しました)

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