はじめにモノローグありけり

鬱蒼としたジャングルのなか、温泉が湧き出ている。この地でフィールドワークを続ける研究者から「白髪の男」と呼ばれるノヨノ族の長老が、窪地にできた天然の湯船に恐る恐る足先を入れた。熱さに耐えながら少しずつ膝を曲げ、肩まで湯に漬かる。

「ムイ クラゴケクラゴケ」

体内を満たした幸福感を吐き出すように、意味不明の言葉をつぶやいた。

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 インドネシア・カリマンタン中央部にあるヘモンゲリ峡谷。1996年、アメリカ・サウスカロライナ州立大学の人類学者レスリー・ブラント教授を乗せた飛行機がこの地に不時着したことから偶然「発見」されたノヨノ族の生活は、世界中に衝撃を与えた。

「この社会には会話がない。個人と個人の間の意志疎通の手段としての言語が存在しないのだ。生活のあらゆる場面を支配するしきたりに従って、文字通り黙々と暮らしている。子供は大人たちの暮らしを見て暗黙のうちに不文のしきたりを理解し、成長してからは無意識のうちにそれに従う。少なくとも過去数千年間にわたり、ノヨノ族はこのような生活を続けてきた」(L・ブラント『沈黙の世界』)

我々が暮らす「文明社会」にとっての驚きは、ノヨノ族の社会では、誤解や意見の対立、そして紛争が極めて少ないということだった。過剰とも思えるスキンシップが、言語以上に有効な「潤滑油」として機能し、人々は固い絆で結ばれている。

実は、ノヨノ族にも言葉はある。我々との違いは、ノヨノ族の言葉では話し手と聞き手が常に同一人物だということだ。

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 「ムイ クラゴケクラゴケ」

恥部を隠すのに使われるヤシの葉を頭の上に載せたまま、長老は同じ言葉を繰り返す。意味は不明だが、ノヨノ族では老若男女を問わず、温泉に身を沈めた瞬間に「ムイ クラゴケクラゴケ」という言葉を発し、同時に至福の表情を浮かべることが確認されている。

ブラント教授が身振り手振りで「クラゴケ」の意味を尋ねると、長老も身振り手振りで、死者の魂が上っていく天上の世界を表現したという。「この言葉は、お湯に浸かると体中の疲れがほぐれ、まるで天国に登ったように幸せだという喜びを吐露している」と、ブラント教授は予想する。

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 「人類はどのように言葉を得たのか」という謎に取り組んできた言語学者に、ノヨノ族の言語文化は重要な手がかりを与えた。

これまでに「男が自らの魅力をアピールして生殖につなげるため」「獲物が隠れている場所を伝えて狩りの成功率を高めるため」「敵対する部族の来襲を知らせて素早く守りを高めるため」などさまざまな学説が唱えられたが、いずれも決め手に欠けた。言語の登場は数万年から数十万年前。テープレコーダーや文字が発明されるはるか昔のことで、当時の経緯は知る由もない。

「いまもこの世界に生きているノヨノ族は、過去数十年にわたり続けられてきた不毛な論争に終止符を打つかもしれない。彼らは我々に明確な表現で何かを教えてくれるわけではないが、彼らの社会を見る限り、言語の出発点が求愛でも狩猟でも防衛でもないことは明らかだ」(フランス・リヨン大学のジャン・スバティエ教授)

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 ノヨノ族の社会で頻繁に耳にする言葉が「マッコイッシュ」だ。重いものを持ち上げるとき、長時間座ったあとで立ち上がるときにこの言葉を発する大人、高齢者が多い。言葉が誰かほかの人物に向けられているわけではないという点では、「ムイ クラゴケクラゴケ」とまったく同じだ。

「マッコイッシュ」と口にしたところで疲れが癒されるわけでもないし、大きな力が出るわけでもないことは、ノヨノ族の高齢者たちにもよくわかっている。「マッコイッシュ」は老人のネガティブなイメージとも結びついており、彼らとしても我慢したいところだが、気が緩んだ瞬間にどうしても言葉を発してしまう様子だという。

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 自らに向けられて発せられた瞬間に言語の歴史が始まったという新しい学説には、賛同者が少なくない。

「人の頭の上に浮かぶ言葉のうち、文字として書き留められるのは0.5%、発話されるのは3%に過ぎず、ほとんどは誰にも伝えられないまま脳で消えていく。他者との関係を基準に考えれば、言葉とは、基本的に自分自身に向けて発せられるものなのだ。独り言から言語の歴史が始まったとしても、不思議ではない」(スバティエ教授)

有意な会話が飛び交っている「文明社会」さえ、実は独り言で満たされていることも、社会学的な研究で浮き彫りになってきた。南カリフォルニア大学のジョアンナ・メコネー教授の研究によれば、夜遅く帰ってきた娘を叱る父親の言葉は7割程度、全世界で公開されているブログのうち8割以上は「事実上の独り言」だという。

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 ノヨノ族にはバナナの葉を器用に丸めて容器を作り、そのなかに踏みつぶしたバナナの果実とユリの一種の根を詰め、2週間にわたって発酵させて酒を作る習慣がある。このバナナ酒を飲み、酔った男だけが発する言葉もある。

「ナコトオンテイ、ナコトオンテイ」

恨みつらみをぶつける相手を探しあぐねているかのように、同じ言葉を繰り返していた男は、やがて酔いつぶれてしまった。

ブラント教授が3年間にわたり続けてきたフィールドワークで、このような状況が確認されたのは14回。いずれのケースでも、話者はその直前に恋に敗れていたという。

酔いつぶれた男の傍らでは、醸造係の長老が黙々とバナナの葉の手入れを続けている。男の魂の叫びが聞こえない様子で作業を続けることが、寡黙なノヨノ族の高い文化水準の証なのかもしれない。

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