救世主はぽっちゃり型

 まず右足。そうすることで体が軽くなると信じているかのように、そっと左足も体重計に載せた。左右に大きく揺れていた針の振幅はすぐに狭まり、ある一点を中心に震えている。

 「65.4キロ」

 白衣姿の男がパソコンに数値を入力し、満足した表情を見せた。体重計に載ったままの女も笑顔で応じたが、丸みを帯びた頬が心なしかこわばっている。幼いころから数え切れないほど浮かべてきた表情だ。

 武田芳佳さん。28歳。156センチ、65.4キロ。一言でいえば、ぽっちゃり型だ。

 家電部品メーカーの品質管理部に勤めていたころの武田さんは、控えめだが勤務態度はまじめで、上司や同僚の評価も高かった。だから課長が取引先との電話で「書類はうちの武田に渡しておいてください。そう、ぽっちゃり顔の女性社員」などと言っていたのも、悪意はまったくなく、むしろ親しみを込めたつもりだったのだが、そんな言葉が耳に入るたびに武田さんの心は傷ついた。だからこそ、こわばった微笑で傷跡を隠さずにはいられなかったのだ。感情を丸顔の外に出さなかったことが「いまどきの女性には珍しい奥ゆかしさ」と周囲に受け止められたのが幸いだったのかどうか、武田さん本人にもわからない。

 毎朝自分で作って会社に持ってくるお弁当は、同じ年齢の女性社員のなかで最も小さかった。最後に参加した会社の飲み会でも、できるだけ食べないようにして、一番奥の席でスティックサラダのセロリを数ミリずつかじっていた。が、酒に酔った課長に「なんだ全然食っとらんな。家ではバケツ1杯くらい食べているんじゃないのか?」と冷やかされたことで、長年の不満が爆発した。記憶が残っているのは座卓を5つひっくり返したところまで。翌朝マンションまで謝りに来たのは部長と課長のほうだったが、武田さんはチャイムに応えず、翌日書留郵便で辞表を出した。

 「太りやすい方 急募」

 家からほとんど外出しないまま3週間が経ち、このままでいても仕方がないとコンビニで買い求めた求人誌に、極太の文字を見つけた。容姿や経理の能力はともかく、太りやすいことには自信がある。仕事の内容はまったくわからなかったが、「急募」の下に小さく書かれていた「生体エネルギー研究所」に半ば自暴自棄になって電話をかけると、採用試験の時間と場所を指定された。

 会場にいたぽっちゃり型は武田さんだけだった。残りは老若男女を問わず巨漢がそろい、順番待ちをしながら思い思いにフライドチキン、ポテトチップス、ハンバーガーを食べている。採用試験では、まず白衣の係員らが応募者ひとりひとりの体重を計測し、弁当を配った。ほかの応募者があっという間に平らげた弁当も、武田さんにとっては多すぎたが、白衣の面接担当者に「残さず食べてください」といわれたのでなんとか完食した。約4時間後、今度は体重測定とCTスキャンによる全身の撮影が行われ、この日は解散となった。

 2日後、電話がかかってきた。「採用です。明日から早速来てください」。

 同じ場所に行ってみると、合格したのは武田さんだけだった。もっと体格のいい人はいたのに、なぜ武田さんが選ばれたのか。その理由は「高効率」だ。

 「極端な話をすれば、1キロの肉を食べて300グラム太るのは簡単。我々が探していたのは1キロのご飯で500グラム以上太る高効率型肥満の人。武田さんこそ我々の求めていたタレントでした」と、プロジェクトリーダーの斉田仁・筑波大学教授は語る。ちなみに武田さんは1キロのトウモロコシや大豆を食べて623グラム太る。そのうち620グラムが脂肪。1グラムの脂肪には7キロカロリーのエネルギーが含まれるから、武田さんは1キロの穀物から4340キロカロリー、つまりエタノール160グラムに相当するエネルギーを生成したことになる。これは、世界最高効率を誇るバイオエタノールプラントの効率の実に29倍だ。

 大気中の二酸化炭素を吸収して育つトウモロコシやサトウキビを原料に生産されるバイオエタノールは、地球温暖化防止の切り札として脚光を浴びている。が、多くの科学者の見方は「バイオエタノールの使用は逆効果」との点で一致している。トウモロコシやサトウキビからエタノールを精製する過程で、化石燃料を燃やして生み出した大量のエネルギーを投下しなければならないからだ。

 人体が食物からエネルギーを取り出して体内に脂肪を蓄積する過程は、依然として謎に包まれている部分が多いが、人工的なプラントよりもはるかに高効率なのははっきりしている。2012年までに二酸化炭素排出量を1990年比で6%も減らすとの目標の達成が絶望視されるなか、政府は昨年春に環境政策の切り札として体内燃料合成プロジェクトを立ち上げ、政府のほか民間の石油会社、国立・私立大学などとともに生体エネルギー研究所を設立したのだった。

 プロジェクトの掲げる目標は野心的だ。武田さんの協力を得て今後2年間のうちに体内での脂肪蓄積のしくみを徹底的に分析するとともに、脂肪を燃料にした動力を開発する。武田さんと同じような体質の人を大々的に募集し、2011年ごろにはぽっちゃり型の人を中核とする燃料システムを実用化する計画だ。

 「8.4キロ、8.5キロ、8.4キロ……8.5キロ」

 右足、左足、右足、左足と、呼気成分を分析するためのマスクを口につけた武田さんが、発電機に連結された直径3メートルもある回し車の中、力強い足取りで歩いている。最初は慣れない運動に戸惑ったが、慣れてくるうちに目標の時速8キロ以上を長時間維持できるようになってきた。

 「武田さんが太りやすい理由は2つあるんです。腸の栄養吸収効率が高いだけでなく、筋繊維の効率も優れているために、同じ運動でもほかの人より消費するエネルギーが少なくてすむ。武田さんのような人は理想的な燃料プラントであると同時に、夢のエンジンなんですよ」(斉田教授)

 2時間にわたる発電実験を終えて、武田さんは再び体重計に乗った。まず右足。そっと左足。徐々に針の振幅が狭くなる。

 「64.4キロ」

 1キロ減ったことになるが、流れた汗の重さを考えれば実質的には変わっていない。「すごい効率だ。こんなに運動しても脂肪が減らないなんて。武田さん、あなたは人類の救世主かもしれない」

 興奮気味の斉田教授に誉められても、武田さんはこわばった微笑みを返すことしかできなかった。こんなにがんばったのだから、きっと3キロくらいは痩せたはずと内心期待していたからだ。

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