透き通った味

【味の中央分離帯 二番煎じの第一回】

美味しいものを食べるということは、こんなにも辛いものか。黒部峡谷の急な斜面を這うように登りながら、そう考えた。もう2時間も歩き続けている。

ようやく着いた。小さな丸太小屋に「サイン食堂」の看板。

「いらっしゃいませ」

愛想のいい主人が迎える。清潔でさっぱりとした店だ。

「何になさいますか」

「えーと」とメニューを見たが、「カレーライス ¥520」としか書かれていない。仕方がないので、これを頼んだ。

そして1分半。キッチンの奥で、「チーン」という音が響いた。いやな予感がした。まさか、レトルトのパックを電子レンジで暖めただけなのではないか……。せめて鍋に開けて、5分、いや、3分でもいいから煮込んでほしい。

「お待ちどうさま」

ぜんぜん待っていない。どうやら予感は当たっていたようだ。こんな山奥にまで食べに来たのが、1分半でできるレトルトのカレーライスとは。食欲がとたんに失われていくのを感じながら、スプーンを機械的に動かしてカレーライスを口の中に運んだ。

「こ、これは……」

愕然とした。これまで一度も食べたことのない味。一言でいえば、透き通っている。カレーのスパイスの味が、ひとつひとつ手にとるようにわかる。混沌としたところがまるでない。このカレーそのものは、東京のコンビニでも売っているごく一般的な製品だ。なのに、この驚くべき味。いったい、この山奥の食堂にはどんな秘密が隠されているのか……。

「秘密は、黒部です」

店の主人、清電澄明さんは、透き通った味の秘密を淡々と語りはじめた。

「ほら、この谷の下に黒部ダムがあったでしょ。あそこから直接電気を引いているんですよ」

肉、魚、野菜、水、鍋、包丁。あらゆる素材や道具がグルメやシェフ、評論家により研究され尽くしたが、料理に使われる電気をとことん追求した人は、清電さんが初めてだ。より純粋な電力を探し求めて、電子レンジとレトルト・カレーを背負って日本全国の発電所を巡った清電さんが最後にたどりついたのが、黒部ダムの水力発電所だった。

「一口で、ビリっときましたね」

清電さんが電撃的な出会いを振り返る。

「火力で作った電気で調理すると、わずかだが石油や石炭の匂いが残るんです。原発の電気は自然の風味を壊してしまう。そこへいくと、この黒部の電気は、雪解け水特有の透明さっていうんですか、くさみもくせもぜんぜんない。素材の良さをそのまま表現することができるんですね」

オシロスコープで電気の波形を比較してもらった。

「こっちが都会の電気。ノコギリみたいに山と谷の先端がとがってるでしょう。このあたりの曲線も崩れている。で、こっちの曲線が黒部です。ほら、見事なサイン曲線ですよね」

雪解け水の増える3月から4月、黒部の電気とサイン食堂のカレーライスは一年でいちばんピュアになる。急斜面を這って登るだけの価値は十分にある。

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