菊太・蛍子の再評価進む

 大阪湾を一望する淡路島の小高い丘で8日、松亀屋菊太・蛍子像の除幕式が行われた。昭和30年代前半、体を張った過激な漫才で爆発的な人気を得た伝説の漫才コンビだ。

 菊太は昭和7年、淡路島に生まれた。15歳で漫才師を夢見て大阪に移り住み、下積み生活を経て昭和28年、蛍子とコンビ結成。戦後の復興が一段落して人々が新しい刺激を求めていると感じた二人は、どつき漫才を先鋭化させた新しいスタイルで話題を独占。上方お笑い界を代表する人気者になった。

 しかし、過激な芸は菊太の体をむしばんだ。歯は抜け落ち、消化器は正常なものが一つもなかった。抗生物質を1日に何本も注射し、出番の直前まで控え室で苦しんだが、舞台に上がれば別人のように明るく振る舞った。

 昭和34年、黄金時代は突然終わった。上方お笑い界の長老に、えげつない、難波の恥と批判されたのだ。新聞やラジオも手のひらを返すように冷たくなった。お笑い界から追放された二人は菊太の実家に身を寄せた。昭和38年、菊太は31歳の若さで失意のうちに世を去った。上方演芸史から、二人の名前は完全に消し去られた。

 二人に再び注目が集まるようになったのはこの数年のこと。新しい言語表現が作られる過程について調べていたルポライターが、菊太・蛍子のギャグが現在の大阪で子供から大人に至るまで広く親しまれている表現を生み出したことに気づき、雑誌で発表したのがきっかけだ。漫才を記録した貴重なフィルムやレコードも発見され、「常識を打破する高度な芸」「生まれるのが50年早すぎた」といった肯定的な評価が定着した。

 舞台上では相棒、舞台を降りれば妻だった蛍子は昭和53年、淡路島の病院で静かに45年間の一生を終えている。身寄りのない蛍子を見舞う人など誰もいなかったが、死の間際、蛍子は看護婦に何度もこうつぶやいたという。

「うち、ちっとも寂しくなんかあらへん。天国に行ったら、昔みたいにお父ちゃんのケツの穴から手つっこんで奥歯ガタガタ言わしたるんや」

 フィルムに残った映像をもとに、二人の姿勢を忠実に再現した淡路島の菊太・蛍子像。除幕式のあと、その前で地元の人たちやお笑いファンたちが、半世紀前の漫才を録音したSPレコードに耳を澄ました。菊太の奥歯の響きは、にぎやかで、どこかもの悲しい。

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