別れのうた――苦しみよ、さようなら

 西太平洋の米国自治領、サイパン島。太平洋戦争では日本人兵士がほぼ全滅したこの島で、今日も銃声が鳴り響く。島内にある民間の射撃場は4カ所。いずれも、日本人観光客が最大の「得意先」だ。

 うち1カ所は、ほかの射撃場とはややサービス内容が異なる。標的は人の形をした看板や同心円を書いた紙ではなく、古くなったピアノ。利用者の8割以上が日本人女性だ。400万円以上をかけて日本からマイ・ピアノを持ち込む人も少なくない。

 吉野早苗さんは36歳。6歳のときにアップライトピアノが家にやってきた。週3回のピアノ教室。毎日2時間の練習。おしゃれをして練習の成果を披露する発表会。そんな生活に疑問を感じたことはなかった。吉野さんが子供のころ、女の子にとってピアノは男の子の野球のようなもの。他に選択肢がない時代だった。

「ちっとも楽しくない」。中学に進むころに気づいた。クラスやピアノ教室で一番ピアノが上手な子との差が、そのまま吉野さんのコンプレックスになった。「楽しかったのは、一番上手な子だけだったんじゃないかな」

 生活が荒れ始めた。シンナー遊び、けんか、暴力団員との関係、堕胎、麻薬密売、逮捕……。それでもピアノをやめなかったのは、母が「レッスンだけは続けてちょうだい」と涙を流しながら懇願したからだ。コンプレックスはますます大きくなり、泥沼から抜け出せなくなった。

 吉野さんはいま、パートで働く傍ら通信制の高校で学んでいる。悪い仲間とは関係を断ち切った。しかし、苦しみだけが残ったピアノの練習はずるずると続いた。ある日、新聞でサイパンの射撃場の記事を見つけ、すぐに電話で予約した。ピアノの輸送費用は、幼いころから厳しい練習風景に心を痛めていた父親が出してくれた。

 野原の上に置かれたアップライトピアノ。吉野さんが引き金をひくと、1分間で250発の弾丸が発射され、ピアノは蜂の巣になった。「これを家に持って帰って茶の間に置けば、もう母親もピアノを練習しなさいとは言わないと思う」

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 クレーン・オペレーターの田中俊三さん(49)は、昨年から本業と副業が逆転した。この夏地面に落としたピアノは150台以上。本業では犯してはならないミスだ。

 ニーズの存在に気がついたのは、2年前の秋だった。大型クレーンでマンションの9階にベランダからピアノを搬入する作業をしているとき、突風が吹いてワイヤーが切れ、40メートルほどの高さからピアノが落下。けが人こそ出なかったが、ピアノは見るも無惨な姿になった。

 持ち主であるサラリーマン夫婦は激怒したが、一人娘は「これでピアノの練習をしなくてすむ」と喜び、鉄と木の残骸の周囲で小躍りした。娘がどれだけピアノの練習で苦しんでいたのか初めて思い知らされた夫婦は、最後は笑顔で田中さんを見送ったという。

 翌日、ピアノが落下する瞬間を目撃したマンションの住民数人から電話がかかってきた。「うちのピアノも落としてくれませんか」。いずれも、引っ越しのたびにワイヤーが切れてほしいと密かに願っていた女性たちだった。田中さんが電話帳の広告に「ピアノ落としも承ります」と書き添えると、毎日のように申し込みの電話がかかってくるようになった。

 大型クレーンでつり下げられたピアノが自由落下し、ピアノの音と鉄のフレームがつぶれる音の混じった奇妙な響きとともに破壊される様子を見て、大部分の女性は満足する。しかし、なかには「私が味わった苦しみはこんなものじゃない」と、不満をもらす人もいるという。田中さんは現在、ヘリコプター会社と交渉しており、早ければ今年冬にも、グランドピアノをつり下げた大型機が三宅島の火口に向けて飛び立つ見通しだ。

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 小川はるかさんは、「15年」という目標を立てた。

「5歳から20歳までピアノに苦しめられた。だから、一瞬のうちに破壊するのは甘すぎる。同じ時間をかけてピアノをいたぶっていやりたい」

 ピアノの置かれた薄暗い地下室で、小川さんは固い笑みを浮かべる。

 数々のコンクールで入賞し、勉強の成績も良かった小川さん。優等生の仮面の下では本人も気がつかないうちにストレスが蓄積していた。友人に誘われて出かけた横須賀で、仲良く並んで歩いていた米軍の白人兵士、黒人兵士、白人兵士、黒人兵士、白人兵士、白人兵士、黒人兵士、白人兵士、黒人兵士、白人兵士、黒人兵士、白人兵士のグループに、無意識のうちに殴りかかっていた。

 家族、友人、自尊心……。あらゆるものを失った小川さんは3年前から、地下室でピアノと一緒に暮らす。昨日は彫刻刀でフタに傷を付けた。今日は興奮を抑えるのに苦労しながら、ペンチでピアノ線を1本切断した。明日はドリルで足に穴をあけるつもりだ。

 その一方で小川さんは、ショパンのピアノ作品の録音にも取り組んでいる。これまでに自主制作したCDは4枚。小川さんと同じような苦しみを味わった女性たちの間で、音の欠落に比例するように静かな共鳴が広がりつつある。

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