香車が変える将棋界

 戦いは、焦げ臭い煙のなかで突然終わった。超高速カメラがとらえた山根和利6段の最後の一手は「1二香」。この小さな駒に込められたエネルギーの量は、厚さ15センチの将棋盤にぽっかりと空いた穴からうかがい知ることができる。

 負けた稲場健介7段。色白の顔と長い髪で多くの女性ファンをとりこにしたが、今日はすすで全身が汚れ、瞬間的に高熱にさらされた前髪は短く縮れてしまった。

「銀4枚、金7枚で完璧に守ったはずなのに、あっという間にやられてしまった。この手筋は将棋界に革命を起こすかもしれない」

 革命にはいつも犠牲が伴う。ギブスで包まれ、天井からワイヤーでつるされた手足が、革命の証左なのだろうか。

 山根が使う革命の道具は香車。まっすぐ前にしか進めないこの駒は、『資本論』や機関銃、カリスマ指導者と比べれば何の力も持たないように見える。

 だったら、エネルギーを加えてやればいいんじゃないか ――― そんな逆転の発想が、将棋界を震撼させる「高エネルギー香車戦法」へとつながった。対戦相手が油断したすきに、将棋盤を茨城県つくば市にある高エネルギー加速器研究機構に持ち込み、敵の王将めがけて秒速3キロ以上の香車を打ち込むという、将棋界はもちろん、あらゆる勝負ごとの常識を根底から覆す作戦だ。

 この戦法を編み出してから、山根は25連勝中。負けた25人のうち23人は病院送りとなり、2人は現在も行方がわかっていない。慌てた日本将棋連盟は「『待った』は負け」とのルールを改正し「『待っ』だけでも負け」とすることを急きょ決めた。

 8種類ある将棋の駒のなかで、将棋の現在のルールが確立して以来、最も軽視されてきたのがこの香車だ。前方になら一度に何マスでも進めるため、一度に一マスしかない歩よりも強力だが、盤上に18個もある歩の存在感は、将棋盤の四隅にひっそりと置かれている香車をはるかに凌ぐ。

 ところが、20世紀に入ってからの科学技術、とくに物理の研究成果が応用されるようになり、香車の持つ潜在能力にスポットライトが当たった。「高エネルギー香車戦法」は、素粒子物理学の分野では定跡とされる「高エネルギー電子戦法」「高エネルギーα粒子戦法」などの、いわば派生型だ。

 ほかの分野のノウハウを香車に活かそうとする研究も進んでいる。

「1三千八百十七億九千四百八十七万千八百七十三の香車で、2一にある桂馬を取ることができるはず」

 A4のレポート用紙5枚に小さな字でびっしりと書き込まれた数式や計算を示しながら力説するのは、間宮恵次5段。しかし、将棋盤の横の座標が「1」の位置にある駒に「2」の位置にある駒を取ることなどできない。少なくとも、香車がルールに従ってひたすら前方にしか進めない限りは。

「香車は曲がらないと誰もが信じている。たった百年前まで、真空中で光が曲がったりはしないと信じていたように」

 間宮は、将棋界では初めて、一般相対性理論を戦法の裏付けにしようとしている。アインシュタインは一般相対性理論のなかで、重力のある時空が曲がっていることを明らかにした。発表直後、多くの学者が懐疑的だった理論の正しさは、日食のさい、太陽の重力のためにその背景にある恒星の位置が一時的にずれて見えたことで証明された。

「同じことが、香車にもあてはまるはず」と間宮は説く。「地球上では直進しているようにみえる香車だが、たとえば太陽10個分の重力を人工的に発生させれば、桂馬を凌駕する機動性を備えるのではないか……」

 香車への物理理論の導入という時代の流れは、まったく新しい将棋と実験方法を産みだそうとしている。今年5月、岐阜県吉城郡神岡町にある廃坑を再利用して作られた地下1000メートルの巨大なタンクに、香車の駒2500万個を流し込む作業が始まった。周囲の振動や電磁波から遮断され、静かに積み重なった香車の山を崩すのは、太陽から厚い地殻を突き抜けて飛来するニュートリノだけだ。

「…………………………………………………………………」

 タンクの周囲に埋め込まれた無数のマイクを通じ、駒のどんな小さな崩壊も聞き逃すまいと、研究者たちが聞き耳を立てている。9月にも始まるニュートリノと人類の崩し将棋対決。仮に人類が勝てば、ニュートリノの知られざる特性、さらには宇宙誕生の秘密が解き明かされるかもしれない。

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