復権 水中バレエ

「ほら、足を大きく動かして。だめだめ、もっと我慢しなきゃ。まだたった5分しか経ってないじゃない。10分以上はねばらないと」

 水槽の外で池野浪子コーチの鋭い声が響く。スピーカーを通じて水の中で指導を受けているのは、Jリーグ・清水エスパルズの若手選手たちだ。15分の練習を終えて水の外に出た選手たちは、まるで何時間もしごかれたようにぐったりとしている。

 なぜ、水の中でなければならないのか――。

「1万人以上を収容できる世界のサッカースタジアムのうち、2020年には20%、2040年には50%、2060年には70%で、ピッチの高さが海面を下回る」。

 昨年、国際サッカー連盟(FIFA)がまとめたレポート「海面上昇がサッカーに与える影響」が鳴らした警鐘だ。Jリーグ事務局も、今後5年から10年はスタジアムの防水加工で対応できるが、いつかはピッチ水没という現実に直面しなければならなくなると指摘する。

 港町に本拠を置く清水エスパルズは、いち早く海面上昇の影響に注目。昨年、北極と南極に派遣した視察団から、氷山が猛烈な勢いで融解しているとの報告が寄せられたことに衝撃を受け、他のチームに先駆けて水中練習をメニューに取り入れることにした。

 サッカーの強豪国がひしめく欧州や南米にも、水中サッカーの経験はない。しかし日本には水中バレエの残した「遺産」がある。池野さんは1960年に「池野水中バレエ団」を結成、1995年に解散するまで、神奈川県内の遊園地に設けられた専用の水槽劇場で公演を続けてきた。

 池野さんが水中コーチ就任の条件に挙げたのは、鮮やかなピンクや水色、紫色の長い「ひれ」のついた衣装を選手たちに着せること。水中は視界が効かないため、目立つユニフォームでなければ危険すぎるというのがその理由だった。予想もしなかった要求に、エスパルズ側は陸の上との違いを改めて認識したという。

 サッカーの練習が終わった直後、ウミガメ風の特殊ウェアを身にまとったプロゴルファー、有田功さんが水に潜った。

「だめだめ芝目なんて読んじゃ。大切なのは水の動きなんだから」

 厳しいチェックにうなずいたあと、有田さんはドライバーに渾身の力を込め、思い切りボールを叩いた。一瞬、時速200キロ以上に加速したボールは、空気とは比較にならないほど大きい水の抵抗のためすぐにスローダウン。ゆっくりと3メートル先のカップに吸い込まれた。

 水槽の外で練習の様子を見つめる日本ゴルフツアー機構の関係者は語る。

「国内の一部のゴルフコースは、15年以内にティーショットの前からウォーターハザードという異常事態に直面するだろう。欧州でもこの夏の大洪水を受け、水中ゴルフの機運が急速に高まっていると聞く」

 日本ゴルフツアー機構では、池野さんの協力を得て水中でのプレーを研究すると同時に、女性キャディ50人を志摩半島に派遣して研修を受けさせているという。

 練習メニューを一通りこなした有田さんに代わって潜ったのは、乙姫様チームと浦島太郎チームに分かれたビーチバレーの2チーム。普段から水に親しんでいると思われがちなビーチバレーの選手たちだが、水中化への取り組みは難航しているようだ。助けを求めて水槽のガラスを拳で叩く4人の選手に池野さんが向ける視線は厳しい。

「泳げる人は海で泳ぐもの。彼らは水がこわいから、砂浜でいつまでもボール遊びをしていたんでしょう。死ぬ気で練習しなければ、水のなかで自由自在に動けるようにはなりませんよ」

 サッカー、ゴルフ、ビーチバレー……。水中化の動きは幅広い競技に広がりつつある。35年間、池野さんが心血を注いだ水中バレエ団は、最後までキワモノ扱いから脱却することができず、解散に追い込まれた。その池野さんがいま、水面下でいくつもの大輪の華を咲かせようとしている。

 海面が現在よりも数千メートル上昇して、あらゆるスポーツの戦いが水の中で繰り広げられるようになり、オリンピックがキワモノの祭典になる――池野さんはいま、新しい夢に向かって着実に進んでいるようだ。

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