生きる苦しみ

 日本を出発してから9日目。今日も、柴田拓成は黙々と山を登っている。

 足元は砂と石。踏みしめるたびに崩れだし、靴底が地面に食い込む。もう体力の限界をとっくに過ぎていたが、柴田はある目標に引き寄せられるように進んでいた。

 (何としても、不老長寿の薬を手に入れなければ)

 ここは中国とインドの国境近く。辺りには、人はもちろんのこと、けもの、鳥、そして草木の1本も見えない。周囲には鋭利な稜線が連なっている。永遠の命を手に入れるために、生命の存在が感じられないこんな場所まで来るとは何とも皮肉だなと、柴田はため息をついた。

 命あるものは、いつか死ぬ。この自然の法則がいま、柴田の前に、巨大な壁として立ちはだかっている。勤務先から与えられた仕事は、自然の法則を曲げないかぎり、達成できそうもないのだ。ある夜、居酒屋で「もうお手上げだよ」と柴田がこぼした弱音を聞いた友人が、冗談半分、慰め半分でこう答えた。「不老長寿の薬があればなぁ」

 その一言で、酔いが醒めた。柴田にも、不老長寿の薬があるとは思えなかったのだが、これ以外に方法はない。ダメでもともと。柴田は八方手を尽くして探しはじめた。

 医師や薬剤師は、頭から相手にしなかった。どんな病気でも治せると豪語する健康食品業者も、永遠の健康は取り扱っていない。民話、神話のなかには不老、不死、復活に関するものがあったが、そのほとんどは記述が曖昧で、場所や時代を特定することができなかった。

 一つだけ、中国の民話に興味深いものがあった。

 「チベットの山奥に、不老長寿の薬をもつ仙人が住んでいる。皇帝や豪商が何人も、使者をこの地に送り、薬を手に入れようとした。仙人は尋ねる。『永遠の命がどうして欲しいのだ。理由によっては薬を授けるかもしれぬ』。しかし、仙人を納得させた者は、一人もいない」

 柴田の心には、結局誰も不老長寿の薬を手に入れられなかったという結論が、妙に引っ掛かった。ほかの民話や神話はいずれも、不老長寿を手に入れたあとの経緯を描いている。いわば未完成のまま終わっているこの民話だけが、かえってリアルに感じられた。時代が明の後期と、現代に比較的近いこともあり、柴田はこの民話に賭けてみることにした。

 すぐに準備を整えて出発した。柴田は大学時代、山岳部に入っていたから、まったくの素人ではないものの、ヒマラヤに行った経験はない。不安はあったが、他には方法がなかった。上司も同じ理由から、柴田の出張を許可した。

 それから9日間、柴田は民話の舞台になったとみられる山頂を目指している。しかし、荒涼とした光景と毎日向き合っているうちに、徐々に暗い気持ちになってきた。民話は所詮民話で、この世に永遠の命などなく、<人はいつか死ぬことを覚悟して生きていかなければならない>という教訓を込めた作り話だという不安が膨らんだ。疲労も手伝い、しばしば足が止まった。

 そのたびに「やっぱり納得できない」と思い直して、また登りはじめた。死をゴールにするのは許されない。若者はもちろん、たとえ高齢者であっても、それでは正義が成り立たない。柴田を動かすエネルギーは、すでに怒りの感情だけになっていた。しかし、しばらくすると、また同じ質問への答えを考えてしまう。本当に不老長寿の薬はあるのだろうか。仙人など存在しないのではないか……。

 心の中でそんな葛藤を何度も繰り返したとき、地響きが聞こえた。顔を上げると、前方から巨大な石がこちらに向かって転がってくる。柴田は石の方向を見定めてから逃げ出した。大きな石は危ういところで避けたが、足を滑らせて急斜面を転がった。崖から落下する寸前のところで、絶壁に突き出した岩を片手一本でつかんだ。振り子のように揺れる両足のはるか下に、岩肌が見える。

 死ぬ。柴田は覚悟した。「もう終わりだ」。ほんの数秒前まで、柴田が懸命に否定しようとしていたことを、否応なく受け入れなければならない状況だった。

 「惜しかったのう」

 しわがれ声が聞こえた。柴田の目の前に、雲に乗った仙人が浮かんでいる。助けてという柴田の必死の叫びが聞こえないかのように、仙人は続ける。

 「もう少しで頂上に着き、不老長寿の薬を手に入れることができたかも知れぬ。いや、ものは考えようじゃよ。薬を飲んでから落下してみろ。体じゅうの骨が折れ、内臓がつぶれたとしても生きていかなければならぬ。死ぬということは、痛み、老い、孤独といった苦しみから逃げるということ。死ななければ、永遠に苦しみと向き合わなければならぬ。おまえにその覚悟があるか」

 「私ではありません。死んでもらいたくない人が別にいる」

 「では家族か。家族が苦しみから逃れられなくなっても良いというのか」

 「家族でもないのです」

 「ではどこかの金持ちに、堕落した毎日を送らせるためだな」

 「そういうことでもないのです。仙人さま、詳しくご説明する前に、私をまず……」

 「そうじゃった、そうじゃった。ほれ、この杖につかまれ。いままでにたくさんの人間が不老長寿を求めてやって来たが、お前のような奴はおらんかった。自分のためでも、家族のためでも、堕落した暮らしのためでもないという。さあ、事情を聞かせてみろ」

 「はい。仙人様。つかぬことをおうかがいしますが、仙人様は、デパートという場所をご存じですか……」

* * *

 その数日後、柴田は居酒屋にいた。テレビのニュースが、倒産した大手百貨店の前会長が逮捕されたと伝えている。隣の客が冷ややかに言った。「高齢で心臓が悪いからすぐ保釈さ。裁判に何十年もかかるし。刑務所に入る前に、あの世行きだろ?」

 柴田は、自分が前会長を逮捕し、警視庁に連行し、取り調べ中に自分で煎れた特製のお茶を飲ませたとは、もちろん言わない。黙々と酒を飲みながら、この爺さんが刑期を終えて出所するころには、自分はもう死んでるだろうなと考えていた。

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