サラブレッドができるまで

 DNAの鎖に手を加えて、生物を「改造」する遺伝子工学。21世紀を象徴すると考えられがちなこの技術は、実は、何千年も前から存在していた。

 遺伝子の存在が科学者に知られるようになったのは、19世紀中頃のメンデルによる遺伝の法則の発見、より正確には、20世紀初頭のメンデルの研究成果の再評価のあと。しかし人類は大昔から、さまざまな生物の「かけあわせ」を行うことにより、人類に役立つ品種を創り出してきた。イネ、ムギ、リンゴ、ニワトリ、ウシ、ニシキゴイ、バラ……。交配による品種改良がまったく行われなければ、人間の生活様式は今日とは大きく異なるものになっていたはずだ。

 人間に手を加えられた無数の生物のうち、もっともダイナミックな変化を遂げたのがサラブレッドだ。限られた距離を、少しでも速く走ることだけを目指して改良されたサラブレッドは、自動車やテレビと同じ「製品」だと言える。進化の過程で、走るために必要のないものを次々と削ぎ落としてしまったため、サラブレッドは、人間に手厚く世話されなければ到底生きていけない。

 現存するサラブレッドの血統を過去に遡れば、例外なく、3頭の野生種に行き当たる。よく誤解されるのは、モンゴルの草原やメキシコの荒野に住む野生馬とサラブレッドの関係である。これらの馬は、人間の手でサラブレッドが作られる途中で、荒野に放たれたものが、その後、自力で生きていけるようになっただけであり、祖先とは呼べない。

 サラブレッドの祖先となった3匹の野生馬は、17世紀から18世紀にかけ、中央アフリカの草原で捕獲された。これら3匹の子孫のうち、足が遅いものは他にどんな長所を持っていたとしても人工的に淘汰され、足が速い個体だけが子孫を作ることを許された。百代以上にわたってふるい分けを繰り返したいま、サラブレッドは1マイルを約1分半で駆け抜ける能力を具えている。

 野生馬とサラブレッドの違いは、まず、足の太さにある。サラブレッドの足が細い理由は、競輪選手の乗る自転車の車輪が細いのと全く同じだ。動くパーツの質量が小さければ小さいほど、エネルギーを効率よく地面に伝えて前進することが可能になる。一方、野生馬の太い足にも、それなりの理由がある。アフリカの草原で肉食獣から逃げる野生馬は、右へ、左へと方向を変えながら追跡を振り切ろうとする。サラブレッドのような細い足では、方向転換のさいに足にかかる大きな力を支えきれず、骨が折れてしまう。もともと直径が50センチ以上もあった野生馬の足が、サラブレッドではすねの部分で10センチ以下まで細くなったのは、直線と半径の大きなカーブしか走らない単純な運動に特化した結果だった。

 足の太さとならぶ大きな相違点は、耳の面積。日中の温度が50度を越えるサバンナで生きる大型動物にとっては、体温調整のシステムが欠かせない。野生馬は熱い血液を比較的大きい耳に送ることで、体温を下げている。しかし、競馬場のトラックでは、大きな耳が空気抵抗を増やし、スピードが低下する原因になる。このためサラブレッドには必要最小限の耳しかついていない。代わりにサラブレッドが獲得した体温調整のしくみは、飼育係がかけてくれる毛布や、わら、そして厩舎内部を常に快適な温度に保つ空調設備だった。

 外からは見えないが、循環器や呼吸器も変化をとげた。サラブレッドののどについている小さな声帯では、せいぜい、いななくことしかできない。仮に大きな声帯が空気の通路に突出していれば、呼吸のじゃまになり、全力疾走時に十分な酸素を肺、さらには足の筋肉に送ることができない。一方、野生馬はなわばりを主張したり、肉食獣の接近を遠くの仲間に知らせるため、巨大な声帯をもっている。「パオーン」という巨大な咆哮は、数キロ先まで響くという。

 ライバルよりも速くゴールインする。これだけの目的のために、サラブレッドは人間の手で改良され続け、鋭利なナイフのような無駄のない肉体を手に入れた。サラブレッドの肉体を「神々しい」と誉め称える競馬ファンも少なくないが、それは間違っている。サラブレッドの美しさには、神の意志ではなく、人間の意志や試行錯誤が反映されているからだ。1891年のダービーで大穴とされていた出走馬が2頭身の「鼻の差」で優勝してしまったことに腹を立てたビクトリア女王が、サラブレッドの体型について厳格なルールを制定しなければ、サラブレッドは今日でも、その祖先と同様、器用な鼻でエサをつかんで食べていることだろう。

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