気軽な母性、高度な母性

野口真理子さんは、生まれたばかりの赤ちゃんをガラス越しに見つめながら、何度も幸福感に満ちたため息をついた。産婦人科病棟を訪れた友人たちの言葉も、お世辞とは感じられなかった。

「かわいい小さな手」
「おめめがクリクリしていてかわいいわね」
「鼻と口が尖っていて、なんだか知性的」
「前歯がしっかりしているから将来大物になるかも」

赤ちゃんを見つめていた野口さんの目からは、いつのまにかうれし涙が流れていた。ちょうど、DNAが自分と類似した赤ちゃんを生んだばかりの母親が泣くのと同じように……。

「異種生物間代理母法」が施行されたのは昨年2月のこと。もともとは母牛による人間の子ども出産に道を開き、出生率低下に歯止めをかけるのが狙いだったが、実際には人類女性の動物出産ブームに火をつける結果になった。

動物の代理母になる理由は人によりさまざま。野口さんの場合は、もともとハムスターを飼うのが好きだった。

「眠るのも食事もお風呂もハムスターと一緒。これ以上近づくには、生むほかに方法がないと思いました」

小動物の出産は、思いついたらすぐに実行できる手軽さが魅力だ。メスのハムスターから摘出された受精卵が野口さんの体内に埋め込まれたのは2ヵ月前のこと。胎児が小さいため母体への影響はほとんどなく、仕事は出産当日の午前中まで続けることができた。会社も1日に数回、野口さんを非常用はしごで昇り降りさせ、胎教に協力してくれたという。

父親が要らない。キャリアに影響を与えない。分娩の痛みがほとんどない。こんな理由からいわばゲーム感覚で動物代理母になる多くの若い女性と対照的なのが、自らの能力の限界に挑むチャレンジャーたちだ。

スクワット3000回、腹筋1000回、ランニング5キロ、胸の上に30キロの砂袋を載せた状態での呼吸練習1時間、枕元に立つ2本の鉄の棒を素手で曲げる……。根本由香さんの毎朝のトレーニング・メニューの一部だ。このあと6キロのチャンコ鍋を平らげて体重を維持しなければならない。妊娠中はミカン1キロが加わる。

根本さんは今年4月、上野動物園付属動物病院で重さ27キロのタンザニアコビトカバを出産、新生児重量の日本記録を更新した。当面の目標である3年後のインドゾウ出産に向け、週2回は女子プロレスの道場に通い、出産術の練習に余念がない。実験台にされた若手選手は当初こそ逃げ回っていたが、現在では「他人とは思えない」根本さんを慕っている。

一方、数で出産界をリードするのは、425万3452個の命を育んだ小森志保さん。ただし、小森さんがめざすのは量ではない。現在、埼玉県内の木造住宅の基礎部分でシロアリたちにかしずかれながら暮らしている小森さんが追求するのは、生むことだけに集中できる環境だった。

「おしめの交換も家事もしつけも、すべてシロアリたちがやってくれる。私はポンポンうむだけでいい」と語った5秒間に、小森さんが生んだ4個の卵は、すぐに家来のシロアリが運んでいった。名前は生まれた順に#4253453、#4253454、#4253455、#4253456。それぞれ、思いやりのある子、健康な子、逃げ足の早い子、鋼鉄をもかみ砕く丈夫なアゴをもった子に育つようにとの願いが込められた名前だという。

より危険な状況で動物代理母になることをめざす女性もいる。太田優美さんは近く、北海道・十勝川の河口から上流に向かって泳ぎ出す。目的地は150キロ上流にある卵子提供者の生まれ故郷。到着するころには体中がぼろぼろになっているはずだ。途中、漁師のしかけた罠にかかれば切り身にされてスーパーの鮮魚売場に並ぶことになるが、すでに筋子を体内に埋め込まれた母の決意は、繁殖期のサケと同じくらい強い。

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