日本語忘れる日本人

 「『愛媛県』から『えひめけん』への変更が望ましい」

 最近、愛媛県知事の諮問機関である「県名表記変更検討委員会」がまとめた提言の結論だ。委員の一人である地元の大学教授は語る。「理由はただ一つ、ひらがな表記のほうが、わかりやすいから」。

 「愛媛」を正しく読めない人の比率は、県内では昭和53年に8%に達したものの、それ以後は7%以下を保っている。県外でも20%に満たない。一方、漢字で「愛媛」と正しく書けない人は、県内では昭和60年に15%を突破していらい上昇を続け、昨年は75%に達した。県外では90%を超えている。

 表記変更に向けて動き出した地方自治体はいまのところ愛媛県だけだが、新潟県、岐阜県、東京都葛飾区など、難しい漢字やあまり使わない漢字を名前に含む自治体は、いずれも危機感を募らせている。

 「ほかの地域はともかく、我が県だけは大丈夫だと思っていたが、書き取りテストをやってみると、何時間も考え込む若い職員が多かったのでがく然とした」(山口県庁幹部)

* * *

 在日外国人を除けば、日本人の識字率はほぼ100%に達している。いま、国語学者が注目しているのは、日本人の書き字率が過去十数年間にわたり、急速に低下しているという事実だ。

 書き字率とは、成人男女のうち、読むことのできる字の半分以上を手書きできる人の比率。日本ではワープロやパソコンの普及とともに、多くの人が字をどのように書くかを忘れてしまった。

 たとえば「昭和」。平成に入ってから11年が経ち、「昭」の字を正しく手書きできる人は10人に約2人となった。しかも、2人のうち1人は、コンピュータに登録された特殊文字のために、「昭」がへん、「和」がつくりだと勘違いしているといわれる。役所への届け出を頻繁に行う人が、「昭和」を丸で囲むのが正しい書き方だと誤解していることもある。

 一方、電子的に文書を打ち込む場合にも、読みがなは入力する必要がある。このため、読む能力を指す識字率には影響しない。書き取り能力の低下は、自覚症状のないまま静かに進行する。ほとんどの人は、ある日、自分が当然書けるべき字が書けないことに驚く。

 国語研究所付属リハビリセンターの山根愛子研究員は、書き取り能力低下の前兆として、▽電話中のメモをキーボードから打ち込み、紙に書かなくなる、▽誤字脱字を指摘され、「ワープロではこう変換された」と言い訳したことがある、▽「魑魅魍魎」「跋扈」「熨斗」といった難しい漢字を入力したことだけを根拠に、自分は漢字に詳しいと勘違いしている、などを挙げている。

 書き字率低下を加速しているのが、ワープロやパソコンソフトの単語登録機能だ。ほとんどの製品は、ユーザーがよく使う単語を記憶する機能を備えている。この機能を使えば、たとえば「○○物産株式会社」を「かいしゃ」、「東京都中央区丸の内1丁目1番1号」を「じゅうしょ」と登録し、入力効率を高めることができる。

 しかしこの機能は、思わぬ弊害をもたらしている。ペンを持つと、自分の勤務先を「かいしゃ」、電話番号を「でんわ」、住所を「じゅうしょ」としか書けない人が増えているのだ。

 都市銀行に勤務していた32歳の男性は、昨年暮れに退社を決めた経緯をこう振り返る。「毛筆で上司に年賀状を書こうとしたら、何度書きなおしても、課長の名前が『ばーか』、部長の名前が『ばーーか』、社長の名前が『ばーーーーーか』になってしまった」

 このほか、最近ではひらがな書き取り能力の著しい低下も深刻な問題となっている。なかでも難しいとされるのは「ふ」。もともと難易度が高いこの字を正しく書ける人は、日本全国ですでに1000人を下回ったといわれ、教育評論家のなかには、「ふ」の絶滅を防ぐためには書き順の全面自由化が不可欠と指摘する人もいる。

 書き方がにている「め」と「ぬ」、「わ」と「れ」、「ろ」と「る」の混同も頻繁に発生するようになっている。先日、朝日新聞に「社会不安の続く国にも援助を送るべき。衣食足りてわいせつを知る」との投書が掲載されて話題になったが、これは「礼節」の間違いだったらしい。

* * *
 書き字率の低下は、運動能力の低下を反映したものだとも言える。電動鉛筆削りの発売で、ナイフを使って鉛筆を削ることのできる子どもが激減したのと同じように、文字の電子化は、ペンや鉛筆、マジックを使うことができる人の減少を招いた。

 今年4月に文部省が行ったアンケート調査で、「鉛筆を正しく使うことができますか」との問いに「いいえ」と答えた人は44%。「はい」と答えた人のなかにも、鉛筆に改造を加え、占いや護身の道具として使っている人が多かった。

 6月には、人差し指鉛筆回しの人間国宝、六角屋菊次さんが86歳で死去した。筆記用具がほとんど使われなくなったこと、回転用パソコンやワープロの開発にメーカー各社が消極的であることを考えれば、1秒8回転という六角屋代々の芸が断絶したのは、当然の結果と言えるかもしれない。

 書き字率の低下もまた、コンピュータの普及という時代の潮流を反映している。しかし、何らかの理由でコンピュータが使えなくなったら、字の書き方を忘れてしまった人々はどうなるのか。

 消防庁は、地震などの緊急災害でコンピュータが使えなくなれば、自分の名前や住所、電話番号などを思い出せない人が続出し、都市全体が記憶喪失状態に陥るのではないかと懸念している。このほか、[変換キー]という接点の喪失をきっかけに、ローマ字入力派とひらがな入力派の間で、民族紛争が発生するおそれもある。

 コンピュータ社会における日本語の変化に詳しい評論家の河原文夫さんは、こう語る。「もう一度、小中学生に戻ったつもりで漢字の書き取りを練習するのは難しい。しかし、西暦2000年問題で情報化社会がマヒする可能性が指摘されているいま、せめて自分の名前と住所くらいは手書きできるよう練習しておいたほうがいい。無論、ハンドルやペンネームではなく、実名で」

カテゴリー: 言語 パーマリンク