パスワードが「枯渇」する日

 8月12日、関口直人さんは、自らの写真を仏壇に飾り、手を合わせた。この日は関口さんの「パスワード命日」だ。関口さんは今年34歳。平均寿命から予測すれば、これから40年以上はパスワードを使わない人生を歩まなければならない。

「情報化社会でパスワードを使えなくなったことは、ある意味で死に等しい」と、関口さんは目頭を抑えながら語る。かすかな望みを抱いて、暗証番号を「0812」にしてキャッシュ・カードを作れないかどうか銀行に問い合わせたところ、案の定、断られたという。

 インターネットや電子決済の増加に対応して通産省と大蔵省が財団法人パスワード管理協議会を設立したのはおよそ1年前。今年4月からは、犯罪の防止を目的に、安易なパスワードの設定が厳しく規制されている。

 関口さんは当初、銀行のキャッシュ・カードの暗証番号に自分の生年月日、パソコン通信のパスワードに生まれた街の名前、インターネット・プロバイダのパスワードに初恋の人の名前を使っていたが、ある日、協議会から「使用不可」を宣告された。

 協議会によれば、他人によってキャッシュカードやアカウントが悪用された事件のうち、89%は暗証番号やパスワードに個人情報に関する数字や文字が使われていた。個人情報は専門の業者に一定の料金さえ支払えば、簡単に入手することができる。到底、破られないように見えるパスワードも、可能性の高い数千の語句で逐一トライすれば、数分で破られてしまうのが実情だ。

「複雑なパスワードの設定を義務づけたことにより、今年の4月以降、銀行口座やアカウントの不正使用は激減した」と、協議会の島村健一理事は指摘する。

 しかし、規制の強化により、パスワードの選択肢は大幅に狭くなった。例えば親戚の名前の場合、6等親よりも遠くなければならない。テレビ番組に出演した怪獣、モンスター、悪役三人組の名前も一律禁止された。

 今年6月にインターネット・プロバイダと契約した関口さんは、2週間かけても適当なパスワードを考えだすことができなかったため、専門の業者に頼んで何のかかわりもない女性の名前を紹介してもらったが、好奇心で会いに行ったところ、運悪くこの人がたいへんな美女であったために一目惚れしてしまい、やっとのことで登録したパスワードを抹消されてしまったという。

 規制強化は、当初予測されていなかった分野にも影響を及ぼしている。「4126」をパスワード、またはその一部にすることが禁止されてから、伊東温泉のハトヤ旅館では宿泊客の減少が続いている。なかでも、ノートパソコンを持った湯治客の数は従来の10分の1に激減した。パスワード問題に詳しい早稲田大学理工学部の豊田真助教授は、以前、多くの人は何の気なしにパスワードに「良い風呂」を選んだために、毎日何度も入力するうちに、知らず知らずのうちに洗脳されていたのではないかと指摘している。

 ちなみに豊田助教授本人も、パスワードの変更を強制されて以来、「別に髪が黒々としていなくたっていいじゃないかと、余裕をもって考えられるようになった」という。

 このように、多くの人々の生活に影響を及ぼしているパスワードの規制強化だが、ほとんどのセキュリティ・システムがそうであるように、この規制にもまた抜け穴がある。

 規制の実施から数週間がたったころから、全国の役所に、奇妙な出生届が提出されるようになった。子どもの氏名欄には、「河原崎4$2#tT7O1@」「山本45wEQD.dL」などと記されている。姓は親と同じだが、名は数字と英語、記号の組み合わせだ。子どもの名をパスワードにすることは禁止されたが、現行の規定によれば、パスワードをもとに子どもの名前を決めることはできる。パスワード不足に悩んだ親が、ランダムなパスワードを選択したあとで、それを忘れないよう子どもの名前を決めたらしい。戸籍係が全角半角、大文字小文字の区別をしないまま登録したところ、親が激怒したとの情報もある。

 規制が緩和されない限り、無機的な名前の子どもは今後も増えつづけることだろう。10年も経てば、小学生の半分は名札に

 「3年2組 ********」

などと書いているかもしれない。

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