なじみ客のいる店、いない店

 寿司屋において、すし職人の話術は、いわゆる「馴染みの客」を育む要素になるのだろうか。この問題に対する一つの手掛かりを、今野康夫さんが提供してくれる。

 今野さんは見たところ、決して饒舌なほうではない。客がのれんをくぐって店に入ってきたときの「いらっしゃい」、客から注文を受けたときの復唱、勘定を済ませて帰る客の背中に向かって「ありがとうございました」。基本的には、この三種類の言葉だけで客に対応しているように見える。

「その写真はどこだい?」

 これまでに店を訪れた有名人の色紙や記念写真数枚の上には、どこかの山を撮った、白黒の風景写真がかけられている。山の写真に気がついた、会社経営者らしき白髪の男が今野さんに質問したが、今野さんは寿司を握っている手元から視線を動かさずに、

「生まれ故郷の近くの山です」

と、ぶっきらぼうに答えただけだった。

「そうかい、草や木のない、なんだか恐ろしくなるような山だねえ」

「ええ」

 そして今野さんはまた黙々と寿司を握る。ここ「宝寿司」は浅草界隈でも名の知れた店であり、客はただ、今野さんの握る寿司に舌づつみを打っていればいいはずなのだが、3分もしないうちに、意識的に、または無意識のうちに、店の沈黙を破ろうとする客が出てくる。今夜は、白髪の男がその役目を果たした。

「あんた、お国は?」

「北のほうです」

 白髪の男の連れで、中間管理職らしき中年の男が甲高い声を上げ、話の輪に加わった。

「なまりがぜんぜんないですね」

「上京して今年で45年ですから、チャキチャキの江戸っ子じゃあないが、なまりはないですね」

 今野さんが笑った。今野さんは愛想笑いということをしないから、今夜初めて見せる笑顔だ。

「ときどき帰るのかい?」

「ええ、まあ。いまは便利なもんで、ビュッとひとっ飛びですからね。ただ母親が死んでからは、帰っても寂しくてね」

「そう……」

 店の空気が重苦しくなった。白髪の男は、質問しなければよかったと後悔したが、今野さんが話を続けてくれたことに救われる形になった。

「集団就職で上京したのが15歳のとき。最初は繊維工場に入ったが、すぐに潰れました。田舎から出てきた仲間は散り散りになったが、いまでも社会のいろんな分野で、みんな頑張っていますよ」

「ほう。で、そのあとすぐ寿司屋に弟子入りしたんだな」

「そういうわけじゃ、ないんですよ。田舎じゃ寿司なんて食ったことがないもんだから、寿司職人になる気なんかぜんぜんありません。最初は左官屋でしたが、親方が夜逃げしちまって、次はケーキ職人になりました」

「へえ、ケーキって、シュークリームとか、バウムクーヘンとかの、あのケーキですか?」

「そう。カタカナが肌に合わなくてね、3カ月で辞めちまった」

「それから寿司屋に?」

「最初は見習いでね。店の前に貼り紙がしてあったんで、入るとね、おかみさんが、『里はどこだ』『東京に身寄りはないのか』とか聞くんですよ。正直に事情をはなしたら『そう、それはお困りでしょう』なんて言って、奥に引っ込んだと思ったら、今度はおやじさんが出てきた。『おれも東京に出てきてから、随分と苦労した。で、お前、口は固いのか』って聞くから『ええ、そりゃあもう』と答えると、『じゃあ、明日から来てもらうか』ってことになったんです」

「口が固いのが採用の条件か。うちの会社にも企業秘密はたくさんあるからな。秘密が守れんような男は使えないよ」

 と、白髪の男は納得した様子である。しかし、中間管理職風の男は不思議に思った。

「でも、寿司屋の企業秘密って、なんですかね。玉子の焼き方とか、そういうものなのかな?」

 今野さんは何も答えず、黙々と寿司を握っている。そして、再び店の中は静寂に包まれた。今野さんは握り終えた寿司二つを中間管理職の前に置き、相手を見据えて、こう尋ねた。

「なんだと思います?」

「さあ、なんでしょう……」

 今野さんは客に想像もつかないことに満足した様子で、こう言った。

「大きい声じゃ言えませんがね、M資金なんですよ。その秘密というのが」

「えっ、M資金!」

 白髪の男は驚きのあまり、飲んでいたお茶を吐きだしそうになり、慌てておしぼりで口をおさえた。

「戦後まもないころから、M資金を活用してなにかしでかそうという人は、この店で申し込むことになっていたんですよ」

「そ、それは、本当かね」

「本当ですよ」

 今野さんは、白髪の男の慌てふためきようにさらに満足して答えた。

「ちょっと待ってください。その『M資金』っていうのはなんなんですか」

 中間管理職がそう尋ねたとき、カウンター席の片隅で、さきほどから会話に加わらずに黙々とちらし寿司を食べていた和服の男が、白髪の男と中間管理職が座っているほうを見て、こう説明した。

「お若いの、M資金とはな、戦後の怪事件に何度となく登場した、謎の資金なのじゃ。その規模は数十億円とも、数十億ドルとも言われるが、誰もその実態を知らぬ。それにしても浅草の寿司屋がM資金の窓口になっていたとは、夢にも思わなんだ」

 まだ半信半疑の様子で、白髪の男が今野さんに尋ねた。

「じゃあ、先代の店主は、GHQかなにかの関係者だったのか?」

「いえ、どちらかといえば、米国防総省に近いらしいんですがね」

 和服の男が口を挟んだ。

「ほう、それは初耳ですな。この店にはNASAの息がかかっているとばかり思っていたのだが」

「まあ、コネはいろいろなところにありますからね。ほら、松田聖子が懐妊したって話。あれはね、私がさる筋から聞いて女性週刊誌にたれこんだんですよ。あの夫婦には、まだ世間には知られていない秘密があるんだな。まあ、あんまり多くは言えないが」

 その時、勢い良く引き戸をあけて、テレビのワイドショーによく出演している芸能レポーターが店の中に入ってきた。

「どうも。ええと、竹を一人前。情報のほうは特上で頼むよ」

 なれなれしい口調から判断して、このレポーターも店の常連らしい。

「まあまあ、そう慌てないでくださいな。いま松田聖子妊娠情報を、ほかのお客さんに話してたとこなんですよ」

「そうか。で、父親は誰なの?」

 と、メモ帳を胸ポケットから取り出しながら、レポーターは尋ねた。

「これも、ここだけの話ですがね、相手はやはり外人でしたが、芸能界とは関係ない人。米農務省の高官ですよ。穀物担当の。私がその男にじかに聞いたところだと、今年はエルニーニョの影響で……」

 そのとき店に入ってきたのは、携帯電話を持ったスーツ姿の若い男3人。店まで競走してきたのか、肩で息をしながら鉄火丼やいくら丼を注文し、「これからいよいよ作付け状況の説明です」などと電話の相手に報告している。

「商社のみなさん、こりゃ毎度。えーと、どこまで話したのかな。そうそう、エルニーニョの影響で、米国での小麦の作付け状況は『やや不良』となりそうなんだが、中国がパキスタンに核兵器の技術を供与するようなことがあれば、小麦の対中国輸出が禁止され、国際市場における需給がだぶつくことになりそうですな」

 座敷席に陣取っていた外人客が、それまで閉じていた襖を開くなり、通訳を通じてこう尋ねた。

「中国はどの程度の技術を、パキスタンに供与するつもりなのか」

「そりゃあもう、中国が持っている技術すべてでして。こりゃ、ことによっちゃキューバ危機以来の事件に発展するかもしれませんな。キューバ危機といえば、みなさんは、ケネディ暗殺の真相をご存じですか?」

 すべての客が、無言で首を横に振った。

「ケネディ暗殺の真犯人は、何をかくそう……。あ、こりゃまずい。もう閉店の時間です。この続きはまたこんど……」

 今野さんの声が、けたたましい轟音に包まれて聞こえなくなった。激しい振動のために、皿、コップがカタカタ音をたてた。最初はゆっくりと、そして次第に加速しながら、店の壁、カウンターとともに、今野さんが上昇していく。

「CIAがからんでいるんですかぁぁぁ」

 と誰かが叫んだが、今野さんは

「明日は水曜で定休日ですから、この続きはあさって……」

 と答えたところで、上空に浮かぶ巨大な葉巻型円盤から発射された光線のなかに包まれてしまった。

 今野さんが消えたのを見届けた客たちは、携帯電話や衛星通信の端末でどこかに連絡をとりながら、宝寿司があった場所を離れていった。最後まで残った白髪の男と中間管理職風の男が、椅子に腰かけたまま、お茶を飲んでいる。

「博士、あの寿司屋は何者なんでしょうか」

 と、白髪の男。口調がさきほどまでとは全く異なっている。中間管理職風の男は、

「いや、慌てるな。今日は重要な手掛かりがあった。『北のほう』と言っていたからな。とりあえず北極星から30度の範囲内を重点的に捜索してみることにしよう。あさっては、そうだな、フランス人老夫婦に変装して来店することにするか。いつかきっと、あの寿司屋の正体をつかんでやる……」

 とつぶやいて、UFOが消えた北の夜空に鋭い視線を向けたのだった。
月刊「現代寿司屋経営」1998年8月号
「特集・馴染みの客がいる店、いない店」から

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