打ち上げ

 私はその青い錠剤を口に含み、コップ1杯の水とともに呑み込んだ。

 「使用上の注意」に従って、照明を暗くし、目を閉じてベッドに横たわった。

 すぐに、白と黒の不規則な模様が見え始めた。やがてその模様は中央に集合し、巨大な塔のようなものを形成した。ピントが合うように、ぼんやりとしていた情景が次第に明確になった。

 打ち上げ台の傍らに立つ、巨大なロケットだ。

 白黒のテレビでそのロケットの勇姿を初めてみたとき、私はまだ中学生だった。液体燃料を5本束ねた第1段の推力は3,400トン。アポロ宇宙船と先端の緊急脱出装置を含む高さは110メートル。アメリカが技術の粋を結集して開発し、人類を初めて月に運んだサターン5型ロケットだ。機械に興味を持つ少年なら、誰でも当時の新聞が伝えたサターン5型のスペックを暗記していた。私もまた、例外ではなかった。

 幻覚の中のケープ・カナベラルに、場内放送が響きわたった。

「液体燃料充填、90%完了。打ち上げ40分前」

 自信に満ちたその声は、当時のアメリカを象徴していた。ソ連との宇宙開発競争に勝ち、人類を月面に立たせるというゴールが、目前に迫っていた。アメリカ人は「自由主義を守るためのベトナムへの軍事介入」が、当局の説明通り、すぐに終わると信じていた。それは、アメリカの発展が人類の繁栄に直結していた時代だった。

「液体燃料充填、95%完了。打ち上げ30分前」

 ロケット内部のケロシンタンク、液体酸素タンクが満たされると同時に、私は体の中心に、熱い血潮が流れ込むのを感じていた。私が1989年の秋を最後に失っていた自信を、その青い薬は、アメリカの自信を象徴する巨大なロケットの幻覚により、いとも簡単に取り戻してくれたのである。

「打ち上げ20分前……。」

 私の愛らしいサターン5型もまた、天井に向かって垂直にそそり立った。いよいよ準備は完了した。久しぶりの勇姿を、妻にも見せてあげたい。

「おい、そろそろだぞ」

「ちょっと待っててくださいね。今すぐですからね」

 秘かな興奮を含む声が、バスルームのなかから聞こえてきた。無理もない。妻にとっても、軌道に乗るのは1989年以降初めてである。これで気合いが入らないほうがどうかしている。

「12分30秒前……。12分前……」

 私は慌てた。幻想の中では、バスルームから出てこない妻に構わず、秒読みが続けられている。打ち上げ台とロケットをつないでいたホース、コード、パイプも次々と取り外された。

「なにやってるんだよ、早くしてくれよ」

「ちょっと待っててくださいね。今すぐですからね」

「7分前……」

 打ち上げ台から遠く離れた見物席では、アメリカ全土から歴史的一瞬に立ち会うためにやってきた人々や、世界各国の記者たちが、今か今かと打ち上げを待っていた。時間よ止まれと願っているのは、私だけだ。

「4分30秒前……」

 非情な秒読み係には、私の願いなど知る由もない。私は発射台を襲うハリケーン、大地震、大津波、大隕石、人食いアリの大群などを想像して、なんとか打ち上げを延期させようとしたが、薬に含まれている成分が、ことごとく雑念をはらいのけてしまった。

「30秒前……、10、9、8、7……」

「待ってくれ、お願いだから、待ってくれ、まだ発射しちゃだめだぁぁ」

 噴射を開始したロケットの轟音にかき消され、私にも自分の絶叫が聞こえなくなった。サターン5型は白い雲を吐き出しながら、青い空に向かってぐいぐいと突き進んでいく。3,400トンの推力を止めることは、私には到底できなかった。上昇とともにロケットの炎は小さくなり、やがて涙にかすんで見えなくなった。

 打ち上げは、私にとっては失敗だった。しかし私はすぐに気を取り直した。いまから薬をまた飲めば、アポロ12号の打ち上げを見ることができるかもしれない。すぐに青い錠剤を口に含み、水とともに飲み干し、目を閉じてベッドに横たわった。

 幻覚の中に現れたのは、真新しいアポロ12号ではなく、白い月をめざして突き進むアポロ11号だった。眼下には青いメキシコ湾と、黄色いフロリダ半島が見える。やがて、すべての燃料を燃やし尽くし、その使命を終えた第1段目が切り離された。地球の引力に吸い寄せられて第1段目は落下していき、大気の摩擦熱によって燃え尽きた。私は幻覚のなかで、アメリカの夢の一部だとは思えない、鉄クズが燃えつきるみじめな様子をいつまでも見つめていた。

「あなた、あなたったら」

 気が付くと、私はいつのまにか、銀色に光輝く月着陸船の下敷きになっていた。私はいつのまにか月面に飛んだのかもしれない。

「あなた、寝ちゃったんですか」

 月着陸船が、四つある脚のうち二つで、私を揺すっている。

「もう、あなたったら、起きてくださいよ」

 よく目を凝らすと、それは、銀色のネグリジェを身にまとった、ふくよかな妻であった。

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