理想の姿を守る──桜守の人知れぬ闘い

 岐阜県飛騨地方のとある山。セミの鳴き声が騒々しい標高800メートルほどの斜面で、薄いピンクの花が満開の時期を迎えていた。周囲の木々はどれも深緑の葉を茂らせているため、その木だけ花の色が浮かび上がったように目立つ。ふもとの人里にある神社の境内が花見で賑わったのは2ヵ月前の話だ。

 額に浮かんだ汗を手ぬぐいでふきながら、飛騨で7代にわたり続く桜守、岡田亮吉さん(68)は驚きの声を上げた。

 「もう飛騨にはこの時期に開花するサクラは1本も残っていないと思っていた。人知れず今日まで残っていたのは奇跡に近い」

 岡田さんは満開のサクラの花を見上げて、合掌して何かを祈ってから、チェーンソーのエンジンをかけた。樹齢500年(推定)の古木が倒れるまで30分もかからなかった。

 すべてのつぼみが一斉に開花したかと思うと、数日のうちに一輪残らず散るサクラ。「もののあはれ」を尊ぶ日本人の人生観に共鳴することで、これほど親しまれる花になったと考えられがちだ。

「それはまったくの誤解。日本人好みの花に、サクラは作り変えられていった」と指摘するのは、京都県立森林研究センターの能勢孝之主任研究員(52)。「江戸時代中期まで、日本には300種類ものサクラが自生していた。花期や花の色はさまざま。その中から日本人の理想に合わないものが切り倒され、現在のサクラ像が形成された」。

 『高度経済成長と桜』などの著書がある経済史家、中森武史さん(51)は、日本が世界有数の経済体へと成長する上でサクラの選別が果たした役割は小さくないと指摘する。

「太田道灌が江戸城を築いたころ、武蔵国では年間200日以上はいずれかの種類のサクラが開花していた。仮に当時の植生が現代の東京に蘇れば、1年のうち半分以上が花見に費やされることになり、日本経済は完全にマヒするはずだ」

 現在、日本で代表的なサクラの品種とされるソメイヨシノは、上方におけるサクラの代表的な名所である吉野と、江戸を代表する花見の一大スポットだった染井でそれぞれ最も数の多かった品種を掛け合わせることで誕生したと思われがちだが、当時の植木職人が試行錯誤を繰り返して作り出した品種は、正確には「ソメイナニワエチゼンダザイフトウショウグウヨシノ」、いわば「全日本」のサクラだ。見方を変えれば、かつては染井、難波、越前、大宰府、東照宮、吉野にそれぞれ固有の品種があったことがわかる。

 しかし、すべてのサクラが人の手で飼い慣らされたわけではない。少数ではあるが、日本人のサクラ観にそぐわない木が山奥に自生している。このため日頃は庭園や公園でサクラの木の世話や植樹に従事している桜守は、年に1ヶ月程度、誰にも告げずに旅に出る。訪れる人などほとんどいない森に足を踏み入れ、時にロープを体に結び付けて崖を降り、丹念に理想の姿から外れたサクラを切り倒している。岡田さんもそんな桜守の一人だ。

 赤、青、緑の花を開かせるサクラ、カブトムシを粘液で捕食して栄養源とするサクラ、呼吸根を備えて河口域の湿地帯に順応したサクラ、そして幹から猛毒の気根を地面に向けて垂らし、木陰で宴に興じる人間を死に至らしめるサクラ…。日本人が理想とする姿からかけ離れたサクラと、桜守たちの人知れぬ戦いは、この瞬間もどこかで繰り広げられている。

カテゴリー: 環境 パーマリンク