緑ぼぶ助の電子エッセイ 母より.dic

「お兄さん、永いあいだ、お会いする機会がありませんが、お元気ですか」

そんなふうに始まる電子メールを受け取って、私は、3年前に亡くなった母のことを思い出した。「長い間」ではなく「永いあいだ」。母の綴り方と、まったく変わらない。

妹が5年前に嫁いだ時、母は真新しい家計簿を妹に渡した。中には、朱色の漆塗りフロッピィ・ディスクが1枚はさまれていた。最近、妹が教えてくれたのだが、README.TXTには、こう書いてあったという。

「『母より.dic』は、母さんが30年間かけて少しずつ我が家の言葉遣いを記録した単語辞書です。母さんは、柳行李3個分の単語パンチカードを持って父さんに嫁ぎました。お前も、お前の家庭で使う言葉をこつこつと貯めて、いつかはお前の娘に持たせてやりなさい」

そういえば私も、中学生だったころ、仏壇の前に正座させられ、母にこう叱られたことがある。

「ぼぶ助、単語辞書を粗末に扱ってはいけません。システムもアプリもハードウェアも、お金を出せば買えます。でもね、辞書だけは、なくなったらそれまでなのですよ。ご先祖さまの残してくれた言葉が、永遠に消えてしまうのですよ……」

驚いたことに、母の目は涙で潤んでいた。私は母の涙から、単語辞書の大切さを学んだのである。

無論、私はこの瞬間も、緑家に代々伝わる単語辞書を使用している。だから、「てまきずし」を変換すると、最初の候補は「クルクル」。緑家で「クルクル?」と語尾を上げて尋ねれば、「今晩、手巻き寿司にしようか」という意味になる。他の家庭には通じない独特の表現が、どの家庭にもある。これは、世代から世代へと受け継がれる文化なのだ。

妹は、母からもらった緑家の辞書ファイルと、嫁ぎ先に代々伝わる辞書ファイルをマージ(合併)した。文化と文化が混ざりあい、そして、受け継がれて行く。

妹からのメールは、こんなふうに結ばれていた。

「あら、もう5時。急いで夕食の支度をしなきゃ。今日のメニューはグルグルです。それではまた。お兄さんお元気で」

グルグル……。太巻きのことだろうか。

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