自動車開発最前線 ~眠れない夜、眠らせない技術~

「もういい、千野は黙ってろ。山田君、図面を全部出してくれないか。鈴木君、生産管理にすぐ打ち合わせしたいと伝えてくれ。横山君は顧客との連絡」

眠気に襲われたころ、頭の中に小栗課長の声が響き、千野和哉は両目を見開いた。11時間ほど前の緊急会議。弘前工場から都内の本社に入った「本社営業からの指示書と、生産管理部門にある図面に一部違いがある」との電話の直後、小栗はプロジェクトリーダーの和哉を含む関東第一営業課第二営業係のスタッフ6人を、会議室に呼び集めた。

「どうなっているんだ」

開口一番、小栗が和哉にぶつけたのは疑問ではなく怒りだった。

もしそれが可能だったなら、和哉は反論しただろう。あんたにそんなことを言う資格はないと。生産管理部門から強度不足を理由に仕様を変更するとの通知があったのは2か月前のこと。小栗は顧客への説明の手間を嫌って「今回のプロジェクトは従来仕様で行く。生産管理にはオレから言っておくから」と言った。たしかに言った。和哉がそれを指摘しても、小栗は「そんな話は一度も聞いていない。百歩譲ってそういうことがあったとしても、きちんと文書で私に報告するべきじゃないか」と、和哉のミスで片づけようとしている。しかも善後策を指揮することで、今回のピンチを自分の手柄にすり替えようとしているのだ。

「もういい、千野は黙ってろ」

頭のなかで響いた小栗の怒号が、眠気を吹き飛ばし、和哉の心を悔しさで満たした。

テーブルを叩き、怒号を交わしながらも、営業部門と生産管理部門は、顧客への説明と設計変更が最小限で済み、しかも十分な強度を確保できる折衷案をひねり出した。問題は、生産の前準備をすっかりやり直さなければならない工場が同意するかどうかだ。納期が迫っていることを考えれば、時間的な余裕はないに等しい。

「千野、おまえのミスなんだから、自分で工場まで行って、朝一番で工場長に土下座して頼み込んで来い」

会議が終わったときには夜10時を過ぎていた。新幹線も飛行機も、すでに最終が出てしまっている。バカヤローと叫びたい気持ちをなんとか抑えこみ、和哉は側面に会社のロゴが描かれた白いワゴン車に黙って乗り込み、ひたすら北に向かった。

深夜1時32分、東北道自動車道、那須インターチェンジ付近。弘前工場の始業時間にはなんとか間に合いそうだ。

* * *

「脈拍は103。やや速いですが、正常な判断を阻害するほどではありません。体温36.7。これも正常です。覚醒度は低下傾向でしたが、完全に回復しました」

和哉の体のいたるところに貼り付けられたセンサーが読み取ったデータは、無線を通じて千野の約100メートル後方を付かず離れず走行しているマイクロバスに届く。搭載されているのは数台のパソコン。社団法人運転技術研究所に所属する白衣の研究者たちの顔が、モニターの放つ光に青白く照らされている。

「これならあと1時間。福島まで居眠りの心配はないでしょう」

覚醒度の変化を示すグラフの曲線を指さしながら指摘するのは、上級研究員の畑地章だ。

「コーヒーが眠気を覚ます効果は30分程度しかもちません。好きな音楽を流すのはまったく逆効果で、眠気が襲ってきます。耳障りな音楽も慣れてしまえば子守唄代わりになることが、これまでの実験結果から明らかになっています」

眠気を吹き飛ばして安全を確保する方法として注目されているのが「不愉快な感情」だ。怒り、悲しみ、後悔、焦り、絶望といったネガティブな思いほど覚醒効果が強いことは、何度も寝返りをうち、一睡もできないまま朝を迎えた経験のある人ならだれでも知っている。

今回の実験は、不愉快な感情がドライバーの心理、生理状態にどのように影響するのか調べるのが目的だ。蓄積された実験データをもとに、安全運転をサポートする新しい技術が確立できるかどうかに、日本の自動車産業の命運がかかっている。

* * *

深夜2時12分。和也の運転するワゴン車は福島飯坂インターチェンジを通過した。

(そういえば、出張で仙台支社や弘前工場に行く際、新幹線で何度も福島県を通過したけれど、福島を訪れたことはないな。だが、美幸はある。5回だったか、6回だったか。そのうち何回、橋田と一緒だったのか……)

「それが、どうかしたの?」

土曜の朝、妻の美幸が、顔に微かに笑いを浮かべながら発した問いが、いつまでも和哉の耳から離れない。

それが、どうしたのだろうか。美幸に聞かれてみると、和哉には答えに窮した。美幸は関西の生まれだが、親戚の住む福島に幼いころから何度も訪れていた。だから連休や年末年始に「あなたは忙しいだろうから、福島の方にちょっと一人旅してくる」と言われても、まったく疑わなかった。仕事に忙殺されている和哉には、関心を払う余裕がなかったというほうが正確かもしれない。

「余計なことかもしれないが、気を付けたほうがいいぞ」

久しぶりの電話で和哉に告げたのは、大学時代からの和哉、美幸の共通の知人である岡本伸弥だった。伸弥によれば、美幸がSNSで知人友人に公開している「ふくしまひとり旅」の大量の画像のなかに、美幸自身の手やセルフ撮影のための棒が写り込んでいないものが、わずかだが紛れ込んでいるという。

「誰か他の人に撮影してもらったって、ことだよな」

同情と期待が入り混じったような声で、岡本は和哉の同意を求めた。

美幸は「一人旅」だと言っていた。見知らぬ人にシャッターを頼めるような性格ではない。矛盾を解決するヒントを、頼んでもいないのに岡本が教えた。

「美幸のアップロードした写真に、必ず『いいね』を押しているやつがいるんだよ。誰だと思う? 橋田だよ。大学を中退した橋田」

大学1年のころ、いつも同じヨットパーカーを着ていた橋田の姿を、久しぶりに思い出した。和哉自身はSNSに詳しくないのだが、岡本の出した名前から、最も望まないかたちで矛盾は解消した。大学入学してから間もなく、橋田と美幸は恋人同士になったが、ささいな行き違いから橋田は美幸を深く傷つけた。和哉は密かにあこがれていた美幸を励まして寄り添い、気が付けば和哉が美幸の恋人になっていた。傷心した橋田は大学に来なくなり、ミュージシャンの夢も破れ、故郷の山形に帰ったと聞いている。和哉と美幸は卒業後に結婚し、数年は満ち足りた生活だったが、やがて和哉の仕事が忙しくなり、すれ違いが増えた。

美幸と橋田はSNSを通じて約20年ぶりに連絡を取り合い、やがて山形に近い福島で密会を重ねるようになった───。そう考えればすべて説明がつく。

土曜の朝、和哉は冷静を装って美幸に尋ねた。何か隠しているんじゃないか? 福島で誰かと一緒だったんじゃないか? 橋田と会っているのか? 美幸は「別に隠しごとなんてありません」「一人旅です」「そんなわけないじゃない」と否定を繰り返したが、明らかな動揺ぶりに、和哉も冷静ではいられなくなった。

気が付くと、力任せに美幸の頬を打っていた。一瞬の静寂を置いて、美幸の表情から動揺が消えていく。和哉の顔を正面から見据え、落ち着き払った口調で言った。

「それが、どうかしたの?」

一つの疑いが確信に変わると同時に、新しい疑問が生じた。妻に裏切られた夫は、どうするべきなのか。仕事に没頭し、家庭を顧みなかった自分に、美幸を責める資格はあるのか……。美幸なしで生きていけるのか。

「それが、どうかしたの?」

美幸の質問の残響、そして、橋田と美幸がまるで中年の夫婦のように仲睦まじく福島県内の名所を巡るイメージが、和哉の頭のなかから眠気を吹き飛ばした。

* * *

宮城県内の長者原サービスエリア。マイクロバスのドライバーが交代し、研究員がトイレを済ませる間にも、休憩なしで北上を続ける和哉のワゴン車からは、刻々とデータが送られてくる。

「効果てきめんですね。この覚醒度なら弘前まで、最小限の休憩で行けそうです」

そう語りながらモニターを眺める運技研・畑地章のまなざしは真剣だ。畑地は、日本が運転者覚醒技術を海外ライバルに先駆けて確立しなければ、国内自動車産業に未来はないと信じている。自動車業界に詳しいモルガン証券アジア産業シニアアナリストの森拓海は畑地と同様の見方を示したうえで、こう指摘する。

「敵はフォードやベンツ、ルノーではなく、グーグルやアップルなんです」

21世紀自動車産業で浮沈のカギを握るとされる自動運転技術。アメリカのIT大手は優秀な研究者と資金力にものを言わせ、既存の大手自動車メーカーをリードしているとさえ言われる。その自動運転技術の欠かせない一環が、覚醒技術だ。

「自動運転といっても、わずかでも手動運転車両が残るのなら、危機的な状況で自動運転モードから手動モードに復帰して事故を回避する必要がありますが、万一のときにドライバーが寝ていたら回避できない。ところが、運転という役割から解放された名ばかりの『ドライバー』は、大事なときに寝ている可能性が極めて大きい。自動運転だからこそ、手動運転以上にドライバーを眠らせない技術が求められるわけです」

* * *

4時7分。北上インターチェンジを通過。

(岩手県には中学校の修学旅行で来たことがある。ここに来なかったら、違う人生を歩んでいたのだろうか。兄のような外科医や、弟と同じ弁護士なっていたのかもしれない)

そんなことを考えてもしょうがない、前を見て歩くだけだと言いたかったが、学級委員の女子、朝比奈百合の叫びにかき消されてしまった。

「先生! 千野君が臭いです!」

修学旅行のバスのなかで百合が叫んだその瞬間まで、千野和哉はクラスのリーダー的な存在だった。比較的裕福な家庭に生まれ、スポーツも勉強も得意。「大きくなったらプロ野球選手か大学教授」という夢にも現実味があると、周囲の大人に感じさせるような子どもだった。

クラスの仲間が集まるとき、その中心には常に和哉がいた。困っている同級生がいれば助けるか、助けていると教師に見せかけていじめるかの選択権は和哉の手の中にあった。校内のトイレで「大」をする奴がいれば、教師のいないところで必ずいじめた。

だから、修学旅行3日目の朝には慌てた。腹を出して寝たのが悪かったのか、何度トイレに行っても止まらないのだ。朝食の前、朝食の後、バスに乗る前、見学先の寺に着いた直後…。繰り返しトイレに駆け込む和哉を見て、クラスの男子たちがざわめきだした。

「ひょっとして和哉、お前…」

和哉は全力で否定した。否定したからトイレに行けなくなった。おさまらない腹痛。次の訪問先まで我慢しなければ。バスガイドが生徒たちに「到着までの1時間、みんなで歌いましょうか」と問いかけた瞬間、忍耐力を使い果たした。

「先生! 千野君が臭いです!」

その日から、和哉は人の輪の中心にいられなくなった。忠実なしもべたちが、子どもならではの残酷な一面を和哉に向け始めた。和哉は将来の夢を語らなくなり、エリートの道を進み続けた兄、弟との距離が広かった。滑り止めの大学に進み、なんとか就職した会社の名前を、母親は知らなかった。父親は調べようともしなかった。

「先生! 千野君が臭いです!」

頭の中に響く学級委員の甲高い声に促されるように、和哉はウィンカーを出してサービスエリアへの入り口にクルマを寄せた。

* * *

覚醒度を示すグラフが右肩下がりとなったのは、小坂ジャンクションを過ぎたころだ。

「無理もありません。もう22時間、寝ていないのですから」と、個人的な面識はない和哉の健康状態を気遣うように、畑地は言う。それでも、休ませるわけにはいかない。ドライバーを覚醒させたまま約700キロを自動運転車両で移動する技術を確立すれば、グーグルやアップルとの競争で優位に立てる。和哉にはもう少し頑張ってもらわなければ。

畑地はパソコンのキーボードを素早く叩いて、和哉の運転するワゴン車の後部座席に指示を出した。それに応えるように、それまでじっと息を殺していた小栗課長が、切り捨てるように言った。

「もういい、千野は黙ってろ」

和哉の覚醒度は上昇したものの、疲労が蓄積しているためか、すぐに下降に転じてしまう。

畑地は少し考えてから、次の指示を入力した。

「それが、どうかしたの?」

後部座席の中央に座った美幸が赤く腫れた頬を片手で抑え、微かに笑いながら問いかける。その隣に無言のまま座っているヨットパーカーの男は、橋田に違いない。

妻の問いかけに、和哉の覚醒度は敏感に反応したものの、その15分後にはゆるやかな下降線を描き出した。

畑地はすぐに次の指示を飛ばす。

「先生! 千野君が臭いです!」

主婦で三児の母、大河原百合(旧姓朝比奈)が挙手して叫ぶ。それでも和哉の眠気は覚めない。東京を出発してから初めて、深いため息ではなく、大きなあくびが出た。

ワゴン車は大鰐弘前インターチェンジを降り、国道に入った。あと約180キロ。弘前工場まで和哉がもつかどうか微妙なところだ。畑地は最後の指示を入力し、祈るような気持ちで「送信」ボタンをクリックした。

「もういい、千野は黙ってろ」
「それが、どうかしたの?」
「先生! 千野君が臭いです!」
「もういい、千野は黙ってろ」
「それが、どうかしたの?」
「先生! 千野君が臭いです!」
「もういい、千野は黙ってろ」「それが、どうかしたの?」「先生! 千野君が臭いです!」「もういい、千野は黙ってろ」「それが、どうかしたの?」「先生! 千野君が臭いです!」

ワゴン車は後部座席に、和哉を鼓舞するかのように全力で叫び続ける3人と無言の1人を乗せ、国道7号線を北西に突き進む。

弘前工場の始業まで、あと2時間12分。

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